紙の海にぞ溺るる

或は、分け入つても分け入つても本の山

志賀直哉『暗夜行路』

 恥ずかしながら、国語便覧に乗っているような名作でも未読のものはたくさんある。そのうち代表的なものが志賀直哉の『暗夜行路』で、その長さから「まあ読めなくても仕方ないのではないか」という無礼な気持ちを抱かぬでもないのだが、仮にも志賀直哉好きを公言している身としては、甚だ心苦しいところである。

 『暗夜行路』の「初版本」は、コレクターからすると魅力に乏しい逸品であると思う。理由はその中途半端な体裁のためで、大正11年に新潮社から「前編」を出版したにもかかわらず、執筆が難航したため、長いこと後編不在のままであったのは周知のとおりである。

 昭和に入り、ようやく『暗夜行路』の名を冠した最初の単行本が出た*1昭和16年の座右宝刊行会版である。1000部限定とされるこの版は、武者とか小林古径とかの挿絵が張り込まれた豪華な造りとなっている。志賀直哉の生前の単行本で、装丁に魅力のあるものがあるとするならば、『夜の光』とこの座右宝版『暗夜行路』くらいではないかと私は思う*2

 

 少し前に、フソウ書房の古書目録で座右宝版がまずまず手ごろな値段で出ていた。外函は欠だったがカバーもあるし注文しておこう、と思ったが売り切れで、まあ安い買い物でもないし、その時は次の機会を待つこととした。

 で、今月のこと。古本仲間からの情報を得て、あるネット書店を除いてみると、「帙入り」の座右宝版が1700円で出品されていた。

 大正-昭和の初版本が格安で出ているとき、まず疑うべきは言うまでもなく復刻版であることだ。近文のものについては外装とか奥付に復刻の旨が書かれているし、もっといえば復刻はオフセット印刷によっているから実物を見ればすぐにわかる。ところがネットの古書店(形態としては新古書店)はそのあたりがわからずに、オリジナルの初版本として安く出してしまうケースがあるから厄介なのだ。

 もっと言うと、この本に「帙」は存在しない。段ボール的な外函と本体カバーとで完本のはずだから、復刻としても謎であった。ので、復刻ならたたき返してやろうという気概で注文してみた。

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 すると、届いた本は旧蔵者が誂えたらしい帙に入った美本だった。確認したが紛れもなく元版の初版本。小口のシミもなく、張り込みの挿絵もすべてそろっている。まさしくこれは掘り出し物! と頁を繰っていたらこんなものに気が付いた。

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 志賀直哉の署名、である。一瞬手が止まってしまった。間違いないとは思ったが、念のため某版道氏に鑑定を依頼すると、昭和40年代の真筆であるとのことであった。刊行から相当年経過して、どういういきさつで署名するに至ったのかはわからないが、かねて欲しかった本が署名入りで、それも格安で入手できたことは大変うれしかった。

 間違いなく「下半期の5冊」にランクインする収穫である。

*1:初出単行本としては、改造社の『志賀直哉全集』であるようだが、現物は見ていない。

*2:但し、たとい簡素で面白みに欠く造りであっても蒐集する、というのが哀しいコレクターの性である。