紙の海にぞ溺るる

或は、分け入つても分け入つても本の山

疑似、浅草体験

 駅を降りると東京大学の裏手へ出た。母曰く、かつてはザリガニの釣れるドブ川が流れていたらしいエリアであるが、ちょうどその構内へ入るところの木が派手に倒れていた。先の台風の影響であろう、根がほとんど露出し、脇のフェンスをまでも持ち上げてしまっているから凄惨である。

 今日の用事は東大ではなく、そこから少し先へ行った日本近代文学館。企画展「浅草文芸、戻る場所」がそろそろ終わってしまうので、いちおう目を通しておこうと思ったのだ。

 このおとなしい郊外で浅草の歓楽街に思いを馳せるというのもちょっと不思議な感じがしたが、まずまず面白く鑑賞した。近文の展示はそこまで展示量の多いわけでないのが常だが、知らない資料も多い(そもそも作家自体知らないこともある)ので、腰を据えた読書――勉強を怠りがちな私にとってはよい学習の機会である。

 展示の中心は川端という印象だった。『浅草紅団』は、初版本を持っていないどころかテキストを持っていないので、勢いづいたところで是非読んでおきたい。先日買った『如何なる星の下に*1』も同様、恥ずべき未読は早急に摘んでおかねばなるまい。

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 珍しく昼食は贅沢をし、館内のカフェBUNDANのコラボメニューたるカツレツプレートをいただく。揚げたてのカツもビーツ入りサラダも美味であった。『浅草紅団』柄の旗はもちろん回収して、どうにかうまく保存するつもりである。

 

 ここでコラボメニューを注文すると、特別展の閲覧チケットをもらえる。前回は確か柘榴ケーキか何かを頼み、卒然かようなサービスを受けて戸惑ったことだった。もともと高額なチケットでない*2とはいえ、何となく嬉しくて再訪の機会を待ってしまう自分がいる。

 

①浅草文芸ハンドブックの会『文学展「浅草文芸、戻る場所」キャプション集』平30年9月8日2版 400円

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 この手のキャプションは一通り熟読するようにしているが、面倒なのでほぼメモはとらない。となると後からの復習は図録に頼りきりになるわけで、そこに一部でもキャプションの欠けがあると致命的である。本書は写真図版の類こそないものの、文字情報はすべて収録されている(らしい)ので買っておくとよさそうだ。

 初版発行同日に2版となっているのは、なんというか律儀だと思う。

 

②『生誕135年志賀直哉――「ナイルの水の一滴」展』日本近代文学館)平30年3月31日 1200円

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 都合がつかずに行くことが叶わなかった特別展だが、図録がよさそうなので買っておいた。特に諸作家との間で交わされた書簡が、かろうじて読める画像で紹介されているのが良い。小林多喜二の献呈署名入り『蟹工船』は、紅野敏郎の連載「志賀直哉の署名本」第1回で紹介された本だが、カラーでは初めて見た。というか、これが「近代文学志賀直哉コレクション」になっていることを知らなかった。とんだ無知である。

 

 徹夜明けの満身創痍なので直帰する予定だったが、気分が変わったので下北沢まで歩く。この辺りは比較的なじみのある街で、道に迷う心配もない。とりあえずホンキチの店頭を覗いてみると、豈図らんや、面白そうな本が大量に拾えてしまった*3

 

③『東京帝国大学一覧 昭和十二年度』昭12年8月5日 300円

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 初めて見る資料であった。内容としては正に東京帝大の情報すべてを記載したような感じで、学則の類から教師の名簿、果ては学生全員の名前とその出身県まで記されている。調べたら明治期から発行しているらしく、巻末には学内及び関係研究施設の地図まで収録されていて、当時の資料としては1冊くらいあってもいいかもしれないと思う。

 だれか有名人でも名前が挙がっていたら面白いと国文科の名簿を見ていると、見坊豪紀の名前があった。もしやとリストをたどると山田忠雄もちゃんと記載されていて、ただそれだけとはいえ、買った甲斐を感じるものである。

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④『炊事当番と乃木将軍』 300円

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 乃木将軍というのは言うまでもなく乃木希典のことだが、炊事当番というのがちょっと気になって拾い上げてみた。すると中身はキングとか富士とかいった大衆雑誌の切り抜きで、掲載された乃木希典関連の創作を寄せ集めた私家本なのであった。乃木希典に興味はないが、執筆している文士の面々が面白くて買ってみた。同様の製本で『恩愛の乃木将軍』もありこちらも購入したが、こちらの表紙には「乃木第八十二号」、『炊事~』には「乃木第八十三号」とあるから、同体裁の合本が80冊以上作られていたのだろうか。巻頭にきちんと目次まで設けるあたり、どうやら几帳面な方による仕事であるらしい。

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⑤鈴木義三郎編『ジャック・アンド・ベティ 巻2 英語自習書』(文教書房)昭24年2月15日 100円

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 かつて英語教科書の定番として君臨した「ジャックアンドベティ」である。これは教科書ではなく、その内容に準拠した自習用のアンチョコらしいが、ジャックベティ最初期のものではなかろうかと思う。

 ちらっと読んでみたが、会話文が中心であるのは当然として、現代に使われている教科書よりもコナレた英語である印象を受けた。和訳部分も逐語訳風の翻訳調ではなくて自然な日本語のように見えるし、パラグラフごとに語釈、文法の解説が挟まれるのは単体だと読みにくいが、教科書と照らしていれば問題はあるまい。2巻目とはいえ中学英語の範囲で「Let's play Riddles」として英語でなぞなぞを考えさせるあたり、生徒の思考力を育もうとする気概が感ぜられはしないだろうか。変に簡単な文法に落とし込むよりも、こういう風にして英語を言語として――つまるところは道具と認識したうえで、さらにもう一歩踏み込んでいくというのは言語運用の訓練として有用だと思う。

 

広津和郎薄暮の都会』(大森書房)昭4年6月20日再版献呈, 著者自装 1000円

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 広津の筆跡は持ってないなぁと安かったので購入。とはいえ広津和郎は別に好きな作家ではない。むしろ献呈先である間宮茂輔のほうに興味があるくらいなものである。

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 知人に聞いたところ、本作には徳田秋声をモデルにしたと思しき登場人物があるという。となるとちょっと目を通しておいた方がいいかも、と思っているが、献呈本だと恐れ多くてなるべく触りたくないとも思う。

 

 一抱え購入した後は、いちおうコース上にあるのでビビビも覗いておく。

 

奥泉光坊っちゃん忍者幕末見聞録』(河出書房)平29年4月20日カバ帯, minoru装 450円

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 知らなかったパロディ本。出たばかりの文庫にしては高いと悩んだが、帯付きで探す手間が面倒だったので思い切って購入。こういうのは出会いが肝要である。

 奥泉光は『「吾輩は猫である」殺人事件』というパロディ(というか後日譚)も著しているが、漱石の文体を徹底的に研究したうえで執筆に臨んでいると、以前講演会で話しているのを聴いた。さすがに現代の作品であるからし漱石そのまんまとまではいかないものの、よく雰囲気を演出できていると思ったものだった。してみるに本作も、舞台とか設定は異なっているとはいえ、坊っちゃんらしさは表現されているのではないかと期待している。

 

 先述の通り、ネットでもバンバン本を買っているし、ここ1ヶ月は本当に狂っていると我ながら思う。歯止めが利かないとも以前書いたが、とめどなく買い続けるようになってしまったのだ。もう一切外出をしないことでしか欲求を止められないのかもしれない。といいつつ、明日も所用で外へ出てしまうのだった。

 

坊ちゃん忍者幕末見聞録 (中公文庫)
 

*1:今回の展示では復刻版が並べられていた。全く珍しい本ではないが、だからこそ現物が要らない、とは考えたくない。

*2:入場料は300円だが、記念にポストカードをランダムで1葉いただけるので展示自体に払っている感覚は薄い。ちなみに今回いただいたのは金星堂版『伊豆の踊子』デザインのものであった。

*3:といってみたが、同店でいいものが拾えるのは実は珍しいことではない。店頭店内の別を問わず行くたびに発見のある、いい古書店だと思う。