紙の海にぞ溺るる

或は、分け入つても分け入つても本の山

お祭り1日目

 年に一度の神田古本まつりである。ふだんは煤けたオジサンが徘徊する場所として知られる神保町も、この期間だけはなんとなく界隈が華やいで、若い本好きの姿も多くみられるから新鮮だ。

 むろん古本者としては朝から赴かなくてはならない。当初の目当ては、ベタに古書会館で開催されている特選市であったのだが、駅を出て向かう途中で先輩に出くわし、「今日は特選より断然こっちでしょ」と引き留めていただいたので、急遽S林堂のワゴン前に陣取ることと相なった。実のところ、開催前からご主人にだいたいどういう本を並べるか聞いていて、特選との兼ね合いから朝一でどちらに行くべきか悩んではいたのだった。

 青展の開始時刻は、特選と同じく10時ジャストである。それまではワゴンにブルーシートをかけておいて、開始とともにそれを外して商い開始というのが常だが、S林堂ではすでに開放されていた。10時までは手に取ることを禁じられていたものの、目見当をつけることができるのでありがたい。

 開始とともに古本魔たちの手がわらわらと伸び出でて、一番前に張っていた我々は本棚を押し倒さないようにするので必死であった。さすがは天下のS林堂と思う次第だが、自分が要らない本だからといって、まるで掘った土かなにかのようにポンポン脇に放っていく輩がいるのには閉口する。

 全体に、近代文学のいいところがリーズナブルな価格で出されていて、とりわけ外装欠とか改装本については思い切った売値がついていた印象である。

 

田山花袋『妻』(今古堂書店)明42年12月10日4版, 橋本邦助口絵 800円

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 待機中、目の前の山のテッペンで存在感を放っていた本。始まる直前にご主人から値段を伝え聞いてはいて、確かに重版裸であるし背の改装もあるけれども、表紙とか本文にそこまで重大な欠陥はないし、まして口絵も残っている。初っ端でこれを見、S林堂ワゴンのクオリティを察したようなものだった。

  口絵はサインから橋本邦助のものとわかるが、装丁も同じ手によるのだろうか。この辺の鑑定は、まだ自信がない。

 

井伏鱒二『なつかしき現実』改造社)昭5年7月3日, 古賀春江装 2000円

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 井伏の第2作品集だったか。初めのものは、新興文学派叢書の方の『夜ふけと梅の花』であるが、こちらはボロいのを所持している。激安かと問われるとそこまででもない気がするが、状態もまずまずよいし、このタイトルは新鋭文学叢書の中でも見ないほうだと思い購入。

 井伏のファンというわけでないから下手なことは言えないが、『夜ふけ』よりはこちらのほうが地味な印象を受ける。代表作としてすぐ思い出される「山椒魚」も私が好きな「鯉」も『夜ふけ』のほうに収録されていて、となれば第1作品集としては優れていたのかもしれないと思う。

 

* * * *

 

 30分くらい漁った後は、すぐさま会館へ走る。こうも遅れてゆくのは初めてだが、どこの棚を見ても嵐の後という感じで、極めて静かに楽しむことができた。しかしながら、よいものがあるかと言われると、畢竟マドテンと同じラインナップであるから、昂奮もそれなりと言わざるを得ない。

 

尾崎士郎『新篇坊っちゃん(新潮社)昭14年8月21日初 吉田貫三郎装 300円

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 題名からして探求書の1冊である。後版は上下に分かれるのだが、そちらは下巻しか持っておらず、通読できないなあと思っていたところだった。この版も74版という奥付を見たことがあるのだが、嬉しいことに初版の入手が叶った。

 装丁を手掛けた吉田貫三郎は挿絵も書いているが、前半部分は宮本三郎の絵となっている。なお、本作は昭和16年渡辺邦男監督により映画化もされたそうである。どこかでアーカイブでもあれば、ぜひ一度観ておきたいものだ。

 

④文芸家協会編『日本戯曲集 第五集』(新潮社)昭4年5月12日カバー 500円

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 前回のシュミテンで買った『日本小説集』と似た体裁の戯曲集である。手に取るまでこんなシリーズがあるとは知らなかったし、まして戯曲など読むわけではないのだが、カバーの状態が良かったので買ってみた。

 なんとなく頁を繰っていたら、瀬戸英一「天井裏の散歩者」というのが目に留まった。言うまでもなく乱歩を想起するわけだが、読んでみるとこれが案外面白い。ちょこちょこ今となっては意味が分からないセリフ回しもあったりするものの、シンプルなコントという感じで楽しめた。「何処の大家だつて屋根裏の散歩者の都合迄考へて家を建てるものはあるまい、それは少し江戸川乱暴だ」という一節は、これが言いたかっただけではないかという気さえ起こさせる。

 『瀬戸英一情話選集』というのも先輩からオススメされたので、今後ちょっと気にしたい作家となった。

 

⑤『軍人援護文芸作品集 第一輯』(軍事保護院)昭17年3月30日, 小川真吉装 800円

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 未知の本で、ちょっと面白そうという程度にしては安くなかったけれども、あとから後悔することが目に見えていたので購入。

 タイトルを見ればわかるように、「文芸作品を通じて軍人援護思想の普及徹底をはかる」ことを目的とした作品集で、目次を見るとこれまた錚々たるメンバーが並んでいる。

 この本には何やら挟み込みがあって、見れば「家の光」編集部にあてた書状らしく、「軍人援護思想普及徹底ヲ図ル為左記資料各一部送付候條可然利用相成度」として、本書と「心のたより」を送ったようだ。

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編集部に1部送り付けてどう活用することを想定したのかわからないが、農村など直接戦争と関係ないところにまで影響を届かせようとした証左といえるのではないか。

 なおネットで調べた限り、本作品集は第三輯までは出ているらしい。

 

 ここで語るような本はこれくらいかと思うが、今日1日で30冊近く購入してしまった。S林堂主人から配送無料券を頂戴したものの、「送ったら負け」という信念に従い、リュックとトートをパンパンにしてひいこら帰ることに。