紙の海にぞ溺るる

或は、分け入つても分け入つても本の山

勘違いフライング

 どういった思い違いなのか、自分でもよく分からないのだが、今日は朝の通勤ラッシュを心配せずに古書会館へ赴けるものという意識が働いていた。むろん、これは気のせいに過ぎず、中途半端な時刻に家を出てしまったが故に、堅実なるサラリーマンの方々と鮨詰めの車両を共にしなくてはならなかった。

 で、ちょっと早いのでマックで時間つぶしに興じようとしたところ、先輩が先にいらしたのでしばしお茶を飲みつつ閑談。9時20分くらいになって、2人で開館へ向かう。

 今日も盛況のようで、我々が到着した段階で既に25人が並んでいた。9時ちょうどでも10人ばかりいたそうだから、どうもシュミテンの競争は年々激化しているようだ。

 

 比較的いい位置からのスタート。ちょっと寝不足がひどかったものの、まずまず良いものを拾えた。しかし思い返してみると、面陳にタスキの中からはコレというものを引き抜けなかったから、今回はmy dayではなかったと言えるのかもしれない。

 先に書いておくと、今日は沖野岩三郎の本がちょこちょこ出ていて、あんまり見ないものだから一通り抱えた次第である。

 

①沖野岩三郎『森の祈り』金の星社)大13年10月18日, 蕗谷虹児装 800円

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 たぶん函欠だろうが、本冊の蕗谷虹児による装丁だけでも十分に楽しめる。蕗谷の仕事、殊装丁に関するものというのはどれだけまとめられているのだろうか。沖野というドマイナーな作家の本でもこれだけ綺麗なのだから、全容をまとめたらきっと面白いに違いないのだが。

 巻末広告を見ると、「『森の祈り』の前篇とも言ふべき!!」として『父恋し』が紹介されていた。未見ながらこちらも蕗谷虹児装ということで、いずれぜひとも入手したいところである。

 

②沖野岩三郎『赦し得ぬ悩み』(福永書店)昭3年2月6日函, 杉浦非水装 1500円

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 実は裸本を既に所有している。その時は確か100円で買ったのではなかったかと思うが、函は初めて見た*1。全体の色彩もいいし、非水のワンポイントも効いている。これは函付きでこそ真価を発揮すると言ってよいだろう。

 

堀辰雄風立ちぬ(新潮社)昭14年5月6日7版, 鈴木信太郎装 800円

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 元版ではないが、欲しかった版である。先日購入した鑓田研一『島崎藤村』と同じく「新選純文学叢書」の1冊で、太宰の『虚構の彷徨』に次いで重要度の高いタイトルだった。

 惜しくも重版で、もちろん帯欠ではあるものの、私はこの表紙の丸っこいフォントが好みなので、ともかく嬉しい。日本の古本屋で調べたところ、少なくとも9の表紙は平凡な明朝体になっているようだった。これだと魅力が激減することは言うまでもない。

 

尾崎士郎『新編 坊ちゃん 上巻』(20世紀社)昭31年6月10日, 鈴木信太郎装 500円

 

 坊っちゃん案件の中でも、本作は何度か購入しているが、これは初めて見る版。おそらく元版と思われるのが昭和14年に新潮社から出されたもの(ただしこちらは『新坊ちゃん』)で、そのあとの昭和28年に山田書店から刊行されたバージョンと合わせて所持していた。

 今回の20世紀社版は、山田書店版と同様に上下巻に分かれ、且つ装丁も鈴木信太郎と共通している。あるいは2社に何かしらの因縁でもあるのかもしれないが、そのあたりの情報を掴む資料が不足している。

 なお、今改めて検索をかけてみたら、山田書店版にも非分冊のものがあるようだ。踏み込むほどに探求書が増えて仕方がない。

 

夏目漱石吾輩は猫である 上編』(大倉書店)明41年2月15日13版, 橋口五葉装 中村不折

 ――――『吾輩は猫である 下編』(大倉書店)明41年8月10日5版, 橋口五葉装 中村不折画 揃1000円

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 猫である。表紙が外れているのは痛恨だ(家に帰って紐を解いたら、下編は扉絵も欠であった)が、この値段で2冊セットならとりあえず良しとしたいところだ。もう結構前になるが、同じくシュミテンのフソウ棚から、既に裸の中編を入手しているから、まあ一応は揃いの体裁を整えることができた。

 カバー付とまではいわないまでも、きちんと表紙付きのは欲しいが、個人的には『鶉籠』より拘りが強くないので、当分はこのままグレードアップは図らないと思われる。第一、状態の良いものは買える値段だとそうそう出てくるまい。

 

⑥『中央公論 第52巻13号』(中央公論社)昭12年12月1日 500円

 実は本日一等嬉しかったのはこれ。式場隆三郎二笑亭綺譚」の初出紙のうち、これは後半部にあたる。場に中央公論がゴロゴロしているのは会場直後から顕然としていたが、肝要の号数を失念していて、混雑に一段落ついてから改めて確認、発見した。もう少し早く気づいていれば、前半の号もあったかもしれない。

 まあ内容じたいは単行本を8冊も持っているから今更なのだが、こうした記事がどういう媒体でどのように受容されたか、というのは興味深い点である。特集からして「近衛内閣の改造」として時局を感じさせるし、クリスマスに児童書を薦める宣伝もあったりして、読むというより眺めて楽しい資料だ。

 式場関連の広告でいうと、国府台病院のものと『絶対安眠法』のものとが見られた。信頼のおかれた高名なる医師が書いた文章と捉えられていたとするならば、当時「二笑亭綺譚」の反響はそこそこ大きかったのであろう。

 

 

*1:すでに書いたかもしれないが、沖野の著作は非水やら蕗谷やらと装丁に恵まれているのに、ネットで検索しても書影が見つからないものが少なくない。実に勿体ないことである。