紙の海にぞ溺るる

或は、分け入つても分け入つても本の山

雨の駆け出し

 異変に気付いたのは最寄りの駅に着いた直後であった。

 ふだん利用している京王線の某駅、改札からやけに長い列が伸びている。路線が1本しか通っていない小さな駅であるから、これは明らかに異常な光景だ。嫌な予感を胸に改札前へ向かってみると、果たして「変電所火災につき運転見合わせ」とのことであった。

 火災ならば多少待っても無駄だ。私はここで踵を返し、駐めたばかりの自転車を引き取って一路、30分の距離にある中央線の駅へ向かうこととしたのだった。

 今日はやや早めに家を出たこともあり、どうにか9時前に神保町に着くことができたが、雨の日にこういうてんてこ舞いは御免こうむりたいものだ。

 

 で、今回はふだんからお世話になっているムシャ書房のデビウとなるシュミテンである。目録からの注文はしなかった(というかここ最近忙しくて頭が回らなかった)のだが、近代文学を中心に扱ってくれるというのはやはり楽しみだ。棚の位置どりはフソウ書房と真逆。どちらに走るかが悩ましいところではあったけれども、フソウの魅力を手放すわけにはいかず、やや申し訳なさを感じつつも、普段通り左へ駆け出すことに。

 

①沖野岩三郎『やんばうさん』(主婦之友社)昭9年1月1日, 宮地志行絵 1500円

f:id:chihariro:20190720085013j:plain

 初っ端、タスキ付の本をザっと見て手に取ったのはこれ*1。沖野の童話系の本、というか附録の絵本だが、案外見かける一品ではある。値段もそこまで安くはないし、ページが分解してしまっているけれども、まあ買っておくかと。

 極端に横長で妙な判型だが、横は主婦之友の本誌の縦の長さということなのだろうか。また、この形で出された他の絵本があるのだとしたら、そちらもちょっと気になるところである。

 

夏目漱石『縮刷 吾輩は猫である(大倉書店)大正8年1月30日52版函, 橋口五葉装 1500円

f:id:chihariro:20190720085144j:plain

 縮刷の猫は、これも片っ端から買うようにしている本だ。猫じたいへの思い入れというより、造本の魅力が大きな要因なのだけれども、それに加えて、古書蒐集を始めだした頃になかなか手に入らなかったというコンプレックスみたような感情も働いているようだ。数えてみたら、どうやらこれが6冊目(函付きは4冊目)らしい。

 今回手に入ったのは架蔵本の中では比較的版数が若く、若干厚みのあるバージョンである。函も印象がよいし、耳部分もほぼ完全に残っている良物件であった。耳は欠損しやすいことで知られているが、なまじ函が付いていると出し入れで余計に傷みやすくなる本だと思っていて、そう考えると函付きでこのコンディションは稀有なものだと言っていいかもしれない。

 

横光利一『御身』(金星堂)大13年5月20日 2500円

f:id:chihariro:20190720085251j:plain

 件のムシャ書房から拾い上げた本。正直横光は追いかけていないし、この本についても相場感をまったく把握していないのだが、処女単行本くらい持っておこうと思った次第である。

 背の文字は割合はっきりしているが、これは塗りなおしたものかもしれない。でもまあ出店祝いということで、これと他に2冊ばかりカゴへ放り込む。

 

高田三九三『子供のうた』(シャボン玉社)昭11年8月26日署名 400円

f:id:chihariro:20190720085511j:plain

 何となく手に取った本だが、扉から巻末広告から実に丁寧な造りでかわいらしかったので購入。よくみると著者近影に署名がなされていた。

f:id:chihariro:20190720085603j:plain

 この高田三九三(さくぞう)という人物、寡聞にして知らなかったのだけれど、wikiで調べたら「メリーさんのひつじ」「十人のインディアン」など、人口に膾炙した訳詩がいくつもあることがわかった。その筋で有名な人であってもこのありさま、まだまだ勉強が足りない。

 

⑤伊藤富士雄『都会』第一書房)昭11年2月15日犬田卯宛献呈署名 300円

f:id:chihariro:20190720090223j:plain

 ちょっと装丁がいい感じながら、古書展ではよく転がっているからと気にしていなかったが、いちおう捲ってみると署名本だったので買っておく。

f:id:chihariro:20190720090257j:plain

 犬田卯というのも小説家のようで、農民運動とか翻訳とかいろいろやっているようだ。この本を拾わなければまず知ることはなかっただろうから、まあ勉強になってよかった。

 

三木露風『寂しき曙』博報堂)明43年11月11日初版, 川路誠装 1000円

 ――――『寂しき曙』博報堂)明44年9月10日再版, 川路誠装 1000円

f:id:chihariro:20190720090736j:plain

 今日は露風とか白秋とか八十とか、詩集がゴロゴロしていた。それぞれ気になるところを拾っていったのだけど、露風のこれは初版と再版とで色が違うのを知らなかったので参考に。初版が茶色で再版が白である。

 詩集はよほど名の知れたものでない限り、相場をまったく把握していない。ので、今回買ったあれこれ(ほぼ半数が詩集だった)も「今買わなくても」というラインが散見されるかもしれないが、目についたうちに、あるいは気が付いたうちに買っておくのが吉だと思う。

 

吉井勇『墨水十二夜(聚芳閣)大15年9月10日函, 小村雪岱装 400円

f:id:chihariro:20190720090527j:plain

 シンプルながら雪岱装だしとカゴに入れておいたところ、雪岱研究家の先輩から「これ、函は珍しいよ」とご教示頂いた。写真の通り惨憺たる有様の函だが、現存するものはほとんど傷んでいるようで、これとて普通の程度らしい。

 フソウ書房の棚には、北光書房から出た戦後の後版も刺さっていたが、同じ雪岱装でも薄っぺらくなっているので魅力は半減していると見えた。

 

 そのほか、ボロボロの『田舎教師』元版、『2と3』とか、『こころ』縮刷函付きとか、あれこれ手を出したがお会計は1万7千円ほど。最近金額的にはあまり買っていないのは、大物に手を出していないだけの話だろうか。ちょっと自分の傾向ながら掴み切れていない。

*1:気が乗ったのと位置取りが良かったのとで、初めて走って遠回りをして棚に向かってみたが、今一つ成果に欠けるような印象であった。慣れないことはするものではない。