紙の海にぞ溺るる

或は、分け入つても分け入つても本の山

蝸牛露伴(幸田露伴)『葉末集』

 シュミテンの2日目に行った。初日で大収穫=大散財を経験し、もはや落ち穂すら拾うだけの余裕を持ち合わせてはいなかったのだが、通りかかっては寄らなければ末代までの名折れである。

 2日目の列は如何ほどかと会場5分前の古書会館を見てみると、なんと待機人数ゼロ。ここからも初日に来る重要性がわかるというものであろう。

 3点ばかり拾ったが、うち1冊を調べてみるといくつか面白いことが分かったので書き残しておく。

 

●蝸牛露伴幸田露伴)『葉末集』春陽堂)明23年9月10日再版, 後藤芳景挿絵 1000円

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 読みは「はずえしゅう」らしい。収録内容は、目次に以下の通り記載されている。

対髑髏 三篇 第一頁

 是ハ丑どしの十二月作

男児 六回 第五十九頁

 是ハ同じ年十一月病中の作

一刹那 三篇 第八十九頁

 是も同じ年五月旅中の作

真美人 三篇 第百二十三頁

 是ハ寅どし一月の作

  私がわざわざ露伴なぞを購入した理由は、ひとえに「対髑髏」が収録されているためで、おそらく時期として初出単行本であろうと見込んでのことであったが、果たして正解だったようである。各篇の頭には見開きで芳景の木版口絵が入っていて、これも雰囲気が良い。

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 これを購入する段階で気づいたのは、巻末に種々のメディアによる『葉末集』の批評が並んでいることであった。「葉末集」というのは単行本の題名であり、同名の作品が存在するわけではない。従ってここにある「葉末集」の批評というのは、即ち『葉末集』の初版を指すと考えてよいだろう。

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 であるとするならば、この部分は初版には存在せず、再版に際して追加された紙面と考えるのが妥当である。同じような例は、渡辺霞亭『渦巻』でも確認している*1

 ここで初版(明23年6月17日発行)を参照しようと国会図書館デジタルコレクションを参照してみると、やはり批評部分は収録されていなかった。なお、奥付は破れているが、デザイン上初版のものであると推測可能である。

 

 また、デジコレの画面を操作し数ページ戻ってみると、石橋忍月「奇男児の略評」(これは初版再版共通している)の直前、「蝸牛園主人 しるす」というあとがきに当たる頁のノンブルが158となっていた。架蔵の再版ではここが141となっており、再版に際して17ページ分、枚数が減っていることが分かる。

 改版したのだろうと本文1ページ目を見てみたところ、1行当たりの文字数が25から27に増えているほか、変体仮名の選択や極々細かい表現に違いが見られた。「唱ふる者もあら」→「唱ふる者もあら」のごとくである。全体のチェックには及んでいないが、おそらく内容にかかわる異同はないだろうと思われる。

 

 初版、再版はともに布表紙に題箋の貼られた和綴じ本であるが、書肆タコウの販売履歴を見ると、明36年2月16日発行の7版本は紙装であるようだ。なお、同書の奥付にある重版の履歴は以下の通り。

明治23年6月17日 初版

同23年9月10日 再版

同25年1月30日 3版

同25年12月8日 4版

同27年3月3日 5版

同28年10月28日 6版

同36年2月16日 7版

 一覧にすると瞭然とするが、7版のみ後になってからの発行となっているため、紙装は7版からではないかと思われるが、他の版の出現を待ちたい。

 

 

 露伴など、そこまで気にしている作家ではなかったし、古書価で言えば凋落の一途をたどっている作家の代表格ではないか。しかしそれでも、このようにコツコツ調べれば面白いこともわかるのだ、ということが示せたと思う。

 かといって、書誌的に重要でこそあれ、それが何になるのかと問われれば私は未だ答えを導き出せていない。

*1:しかし、本が出てこないので例を示すことができないのは残念である。