紙の海にぞ溺るる

或は、分け入つても分け入つても本の山

思いがけず探求書を

 マドテンに朝から並ぶのは実に久々である。特選を抜きにすると半年以上の無沙汰ではないか。とはいえ、池袋でも随分買ったことだし、焦らず悠然たる足取りで9時40分すぎに列に加わる。ギリギリ最下層の最後尾からのスタート。

 まずはいつものとおりにアキツへ直行するも、どうもしっくりこない。すでに持っている沖野の本を試しに掴み取ってはみるが、これは、というものが見当たらない。

 こういうときはあきらめも肝心だと踵を返し、蝙蝠へ進路をとったのだがこれが正解で、数は少ないもののお買い得な木箱から探求書をずいぶんと拾うことができた*1

 

志賀直哉『或る朝』春陽堂)大10年6月20日再版函 800円

f:id:chihariro:20200210103454j:plain

 新興文芸叢書の1冊である『或る朝』の初版は、収録された短編「濁つた頭」で発禁処分を受けており、本書はそれを受けて当該策を削除した改訂版、の再版である。のちに四六判でも同題の単行本が出ているが、そちらはあんまり食指が伸びない。

 この本じたい裸で持っていたはずだし、初版ではないけれども函付でこの値段ならお買い得だろう。本冊も函も悪くない状態である。

 あと志賀で欲しいのは『留女』の函付と、『夜の光』の版違いくらいか。署名入りでも限定本の類はそこまで面白くないし、このあたりが志賀本収集の天井なのかもしれない。

 

夏目漱石『坊ちゃん』春陽堂)大5年9月25日15版 500円

f:id:chihariro:20200210103704j:plain

 坊っちゃん関連として、ぜひとも持っておきたい版であった。初版まで探求するつもりはないが、重版でもなかなか見かけず、同シリーズで転がっている本もだいたい状態はイマイチだから、背もまずまずの個体が手に入るのは嬉しい。

 漱石のこの一連の縮刷版(?)がのちに「ヴェストポケット傑作叢書」に引き継がれていくようだ*2けれど、表紙が単なる緑でなく金をまぶしてあるのは知らなかった(表紙の色付部分右上に残存)。

f:id:chihariro:20200210110211j:plain
そもそもが天金の本であることだし、刊行時はもっと絢爛な本だったのかもしれない。

 

③尾崎放哉/萩原井泉水輯『俳句集 大空』(春秋社)大15年6月23日再版函 800円

f:id:chihariro:20200210103930j:plain

 背表紙を見て、「おっ」と声が漏れた。好きな作家の、ずっと欲しいと思っていた本である。再版だが、むしろ元版の証である。

 尾崎放哉と言えば自由律俳句の代表選手で、「咳をしても一人」などの句で知られているが、本書は唯一の句集ながら死後に刊行されたもの。つまり、生前は市井に業績が伝わっていなかったのであろう。

 今日場に居合わせた先輩に「これ、欲しかったんですよ」というと「競争率低そうだね、いやそんなことないのかな」とおっしゃっていたが、実際どうなのだろう。山頭火と放哉はまだ俳句の中でも読まれている方だと思うのだが。

f:id:chihariro:20200210104042j:plain

 本書、俳句も実に素晴らしくて、ついつい読み耽ってしまうのだが、井泉水の後記を読んでいるとちょっとした発見があった。ここでの公表は避けるが無暗に探求書が増えてしまった格好で、こういう出会いこそ古本蒐集の妙味であろう。

 

④楠山正雄訳『イソップ物語冨山房)大14年9月10日13版函, 岡本帰一・名取春仙挿絵 800円

f:id:chihariro:20200210104147j:plain

 何の気なしに買った本だが、これは以前『西遊記』で買った*3のと同じく冨山房の「模範家庭文庫」の1冊だと後から気づいた。児童書にしては函もしっかりしているし、本冊の装飾もよく、高値がついても納得な叢書だと思う。

 これとて13版まで版数を重ねているし、大正末期にこんな豪華本を購えるのは比較的余裕のある家庭なのかもしれないが、人気はあったのだろう。挿絵には2色刷のものも散見され、これも味わい深い。

f:id:chihariro:20200210104242j:plain

 

 驚くことに、以上の4点はいずれも蝙蝠の棚から。今日の立ち回りは及第点と言ってよいだろう。

 

伊藤整『馬喰の果』(新潮社)昭12年6月1日, 島崎鶏二装 500円

f:id:chihariro:20200210104310j:plain

 なんとなく集めている新潮社の新選純文学叢書の1冊である。珍しいタイトルでもないしイタミもかなりあるが、とりあえずで買える値段。

 それにしてもこの叢書、帯付になかなか巡り合えない。龍生書林主人の大場啓志『芥川賞受賞本書誌』を参照するまでもなく、このシリーズは全部帯がついて完本と見なすのが自然なわけだが、架蔵の帯はまだ2枚だし、他に買う機会はなかった。人気のタイトル『風立ちぬ』『虚構の彷徨』を除いては地味な作家の地味なタイトルゆえに珍重されず、目録等の情報が耳に入ってこないのかもしれないが、ともあれ稀な印象である。

 

⑥岩井允子『波のお馬』(叢文堂)昭2年1月20日函, 初山滋装 1800円

f:id:chihariro:20200210104624j:plain

 あきつの棚に刺さっていて「あっ!」と声をあげた1冊。あまり見かけない本だと思うのだが、半年前に池袋でこの3-4倍くらいの値段で購入している。まあ確かに、前回のは題箋も綺麗に残っていたから、高いのも道理と納得しての買い物だったのだが、それにしても今度のは安いと思い、悔しさから買ってしまった。

 岩井允子については旧稿を参照されたい。しかし、巻末に記載されている続刊『ひよこの卵』『わんわんの木』については、どうも刊行されていないようで残念である。著者近影も少し大きくなった女の子となっていて、字は自分で書けるようになっているらしい。どこまでが允子の実作か(両親他、大人の手が入っているか)は不明だが、記されたことがすべて事実とすれば、放任的な家庭教育の成果と言ってよいだろう。

f:id:chihariro:20200210110425j:plain

 允子の情報はネットにも少ない。しかし調べていると上笙一郎「幼児のうたった本――岩井允子の2冊の童謡集」という文が1990年の古通に載っているらしいと分かった。ぜひとも参照しなければなるまい*4

 

 心持としては大収穫を得たわけで、それでも尚、会計は8千円台。楽しみの割には実に手頃な趣味ではないか。

 

* * * *

 

 その後、国立近現代建築資料館*5で見たい展示があったので上野方面まで歩いたのだが、卒然に買っておきたい新刊を思い出したので神保町まで取って返してきた。東京堂はキャッシュレスで5%還元を実施しているのが良い。

 

⑦『定本 漱石全集 27巻 別冊下』岩波書店)令2年1月29日初函帯月報 6160円

f:id:chihariro:20200210105640j:plain

 現行の全集を買うことなど一生ないだろうと思っていたが、これだけは買っておきたかった。何がと問われれば、もちろん書誌のためである。

 そもそも、清水康次氏の手による旧版全集の書誌も非常に評判がよく、近代の古本蒐集をする上では参照しないわけにはゆかない出来と認識していた。それを古本で入手することもできるにはできたが、どうせなら新刊がいいと刊行を待ち望んでいたのである。

 書誌など余程の誤りでなければ改訂されなさそうなものだが、近年川島幸希氏や真田幸治氏の論考によって新たに記述された資料も数点ある。それぞれには「古通の〇号に詳しい」などと註が付されていて参照するに親切だ。

 本書誌は重版もずいぶんと追いかけていて、版によって印刷所や価格が変遷する様を、編者の実見した範囲ながら表に並べているのが実によい(だからこそ補訂が光るのだ)。これに自分の持っている重版で穴あき部分を書き足していけば、より詳らかなマイ書誌が出来上がるというわけである。

 また補遺として、先日川島氏が発見した「文学志望者の為めに」も収録されている。その向きのマニアは既に新潮選書を購入しているから今更ではあるが、月報の祖父江慎「猫と金属活字」も面白いし、ともあれ持っていて損のない1冊であろう。

 

 毎月毎月、いちおう古本予算を決めているにもかかわらず、「今月はシュミテンだから」「マドテンだけでなく池袋もあるから」などと御託を並べては特別予算を申請する日々である。どうにか生活が成り立っているのは不可思議というほかない。

*1:蝙蝠堂はときたま投げ売りセールの様相を呈するのだが、それでなくても面陳以外の本は300-800円という価格設定なので、ヒットすればお買い得な疑似均一台となっているのである。逆に言うと面陳で並んでいる本たちは、相場を鑑みれば少しくお手軽なのかもしれないが、大物過ぎて手に取る気にもならぬモノばかりだ。

*2:というか、ごく最近まで本書がヴェストポケットの余韻みたような、叢書の名前が消えて版型が引き継がれたものと思っていたのだが、実際は逆らしい。

*3:S林堂の均一で拾ったもの。この日は西遊記関連の古いところが、外装欠とはいっても100円で売りに出されているのが嬉しかった。

*4:先に買った方の本は、どうやら上笙一郎旧蔵らしいと聞いた。もし論考の中で書影が紹介されていたら、そのものかもしれないという期待を抱いている。

*5:入場フリーであるのみならず、カラー印刷でしっかりした造りの図録まで無料で配布されている施設である。現在の展示は、ちょうど金沢に記念建築感がオープンしたばかりの谷口吉郎。今回も素晴らしい展覧会であった。