紙の海にぞ溺るる

或は、分け入つても分け入つても本の山

感冒流行下の収穫

 マスク買い占めの第一波が訪れたのは1月末の事であったと記憶している。それから2ヶ月が経ってコロナウィルスの猛威は留まるところを知らず、むしろ物資不足が日常的な問題となりつつあるあたり、スペイン風邪の頃からの進歩を感じられない。未知のウィルスである以上、対応が後手に回るのはある程度仕方のないことだし、他の国と比べたらマシではあるのかもしれないが、花粉症の身としては、とんだとばっちりを被っていると感じる次第である。

 そんな時局にあって、古書の世界でも大き目の催事は中止になっているところが散見されている。平均年齢の高い業界ゆえ、発症すれば大事に至る可能性も高いのかもしれないが、いちいち気にするような手合いがどれだけあったものか。

 今日のシュミテンは祝日の開催である。ふだんは朝イチで並べぬカタギの人間も参戦できる好機ではあるものの、上記の状況から多くなるか少なくなるかは読めなかった。私が少し早めの9時20分に列に加わったところで、おおよそ20番目。いつもの最下層にたまって待つのはマズいという判断で、10分前まで自動ドアは開放されず、開場も5分前に前倒しにされた。人の量としては、プラマイゼロでふだん通りといったところか。

 

谷崎潤一郎『神童』(須原敬興社)大5年9月18日3版, 山村耕花装 2500円

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 フソウ棚へ駆け寄せるには一番左の一本道が距離的には最短で、私はいつも正直にそのルートをとるのだが、右手へ走って回り込む猛者も一定数存在している。今日も今日とて一本道を進むこととしたところ、一人前にいた老人の進むのが遅く、また追い抜きもうまくできないポジショニングであったため、棚に到着するのが数秒遅れてしまった。いつもならタスキのついた良い本を数冊抜き取るようなタイミングを、見事に逃してしまったわけである。

 それでも着いて正面に本書を発見できたのは幸運であった。そんなに見かける本でもないし、安くて裸の割に状態はかなりよい。金も赤も緑もしっかり残っている方だと思うのだが、そもそもそんなに数を見たことがないので「この本にしては」とまでは言えないのが残念だ。

 今日は谷崎の大正期の本が多かったような感じがしていて、私も他の方のリリース分として『甍』と『あつもの』とをお譲りいただいた。これらは某版道氏の買った口から出た残りであろうか。

 

窪川稲子(佐多稲子)『キャラメル工場から』(戦旗社)昭5年4月3日, 松山文雄装 2500円

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 これも序盤に拾った本である。表題作はプロ文の中でも好きな作品でずっと欲しかったのだが、元版は平気で2万円とか付けられているし、フソウ目録あたりで安く見かけても1万円を切ることはまずなく、これまで新興出版社版で慰めていたものだった。さすがにシミもあるし背もボロくなってはいる*1ものの、この値段で手に入ることは今後もそうそうないだろうから嬉しい収穫だった。

 「日本プロレタリア作家叢書」といえば、私の中では『太陽のない街』でおなじみのシリーズである。その関連から、本書もてっきり柳瀬正夢装だと思い込んでいたのだが、目次を見ると松山文雄であった。尤も、村山知義柳瀬正夢あたりがつくった「日本漫画家連盟」に参加しているみたいだから、あながち推測として遠くないようだ。

 

田村俊子『あきらめ』(植竹書院)大4年3月20日 2000円

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 先輩からお譲りいただいた本。田村俊子は内藤千代あたりと同じくらいの興味を持っているが、軒並み高くて買えない。本書は表紙も裏表紙も外れかけていて、布張りもけっこうな範囲で剥離が見られる。函付きの美本を追い求めるほどこだわるつもりはないし、こんな値段で買えるのだから多くは望まない。

 同タイトルとしては後版らしく、金尾文淵堂のものが元版らしいが、どちらも見かけない本だと思う(どちらが稀少かはわからない)。装丁のかわいらしさも魅力なれど、残念ながら誰のデザインかはわからなかった。

 

北原白秋『OMOHIDE』(阿蘭陀書房)大7年7月23日, 著者自装 1800円

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 この本は知らなかった。東雲堂の元版は明治44年に発行されているから、7年後の後版ということになる。

 英語でないことは読むまでもなく直感としてわかったが、初め手に取ったときは、エスペラントとか妙な翻訳版かと思ってしまった。しかし、少し読んでみると体系としては日本語。単にローマ字で書かれたバージョンなのだった。

 といって今主流のヘボン式でも訓令式でもない。たとえば冒頭部は以下のように表記されている。

Toky ha sugita. Saw site atatakayi kari-mugy no homeki ni, akayi kbi no hotar ni, arhiha awoyi tombo no me ni, kroneko no utkusiyi keiro ni,(…)

本文は青空文庫を参照願いたいが、なかなか読みづらい書き方である。ひとつには歴史的仮名遣いであるところのハ行を"h"で表記している(「或ひは」→「aruhiha」)点、いまひとつは必ずしも表記上母音を伴わない仮名があるという点によって、スラスラ解読することが叶わないのだと思う。田中館愛橘による日本式ローマ字に近いような気もするが、それよりも音に寄った『日葡辞書』みたいな雰囲気も感じる。当時の表記体系、および本書の刊行動機等はちょっと調べてみたい。

 

サトウハチロー『センチメンタルキッス』(成光舘書店)昭7年3月20日3版, 津田尭装 2000円

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 よくわからない本で安くはなかったが、装丁があまりにも魅力的だったので。

 表紙の絵も良いのだが、それよりも造りが凝っている。カバーに見えるフランス装の袖みたいな部分をめくると、写真が張り付けてあり、それが唇型に開いた表紙の窓からのぞいているという仕掛けだ。

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 挿絵も田中比左良や竹中英太郎というメンバーがそろっていてそれぞれ楽しめるが、私の一押しは津田尭のものと思しきこれだ。

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「なにごともソーダ水の夢と消へる」とキッスが溶けだしたソーダ水の挿絵。本文との連関はよくわからないが、全体的な内容としても、当時の風俗がうかがい知れるような感じがしていて気になるところである。

 

高浜虚子『鶏頭』春陽堂)明41年1月10日, 石井柏亭石版口絵 400円

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 終盤、もう落ち着ききった棚から、ちまちまと勉強がてら本を見ていたら気になるものがあった。覚えのないタイトルだが春陽堂発行でしっかりした造りの本である。奥付を見ると高浜虚子であった。

 それだけでは購入の決め手にはならないものだったが、見返し部分を見て買わねばならぬと決意した。

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達筆な書き込みは半分くらいしか判読できないので措くとして、押された蔵書印「神代蔵書之章」というのは校正の神様と呼ばれた神代種亮の旧蔵であることを示す印なのである。

 この印章を知っていた理由は、過去に購入した佐藤春夫→神代の献呈署名本を持っていたためであり、その後に2冊、購入は出来なかったが文学書に捺されていた同印を目にしていたのだ。

 別にハンコひとつ捺してあるからと言って書き込みがあるでもないのだが、本書単体でも漱石の序文が有名みたいだ*2し、虚子の小説集として見ても破格ではあろうと思う。

 

 私にしては珍しく、いまひとつ手応えの感じられぬシュミテンであった。それは蒐集対象ド真ん中というものがなかったからでもあろうが、なんだかんだと2万5千円買い込み、振り返ってみればなかなか悪くない収穫を得られていたようである。

 初版本蒐集歴も丸3年となった。そろそろコレクターとしての立場も確立しつつあると言っては過言やも知れぬが、冊数の広がりばかりは、なんとか抑えてゆきたいものである。

*1:といっても、本書の状態としてはマシな方であると、先輩からご教示頂いた。余談ながらその先輩は近々に郷里へ帰ってしまうため、古書展でお目にかかる機会が減ってしまうこととなった。古書漁りの楽しみの半分くらいは、古書仲間(というか先輩方)とアレコレ話しながら本を見ることであるから、私としては寂しい限りである。

*2:漱石の文学を語る上でのキーワード「余裕派」はここに由来する由。