紙の海にぞ溺るる

或は、分け入つても分け入つても本の山

若き蒐集家、記録をつけ始める

 いちおう古本の蒐集家である。「いちおう」というのは、本格的な蒐集を志しだしてから2年ばかりしか数えていないことによる謙遜だ。

 

 「古本を買うのが好きなんです」と言ったときに、「じゃあブックオフとかよくいくの?」と返答が来ればその相手は古本者ではない。すぐさま頭のスイッチを切り替え、「ええ、最近だと春樹の新刊が……」などと当たりさわりのない話題に転換する必要がある*1

 逆に、相手が古本者であった場合はどうなるだろうか。お互いの「濃さ」によっていろいろなパターンが想定しうるが、無難なセンは「どのあたりをお蒐めで?」という感じではなかろうか。

 かくいう私も、この質問は幾度となくされてきた。たとえば新しい古本仲間を紹介されたとき、たとえば古本屋の主人と初めて言葉を交わしたとき――。自分の蒐集対象を示しておくことは、蒐集の手を広げるにも有用であるし、お互いが収集において敵であるか否かを見分けるという意味においては、名刺代わりの――あるいは威嚇代わりの情報ともいえるかもしれない。

 ところが、私はこの問いに対する明確な答えを持ち合わせていない。領域としては日本近代文学、特に誰でも名前を知っているような「名作」の元版を中心に蒐めているが、これでは「どのあたりを?」の答えにはなっていないだろう。例を挙げれば「芥川を」「白樺派を」「恩地装丁本を」という具合に、作家や流派(門派)を示すのが望ましいと思う。が、どうにも私は特定少数の作家に入れ込んだりすることができず、強い軸を持たずに蒐集を続けてきた。

 

 どうしてこんなことになったのかと言えば、それはたぶん、私が読書家でないためである。人生を振り返ってみるに、たとえ短期間でも読書に没頭した経験というのが、私にはない。よく話に聞くような、「家にあった文学全集を貪るように読んだ」こともないし、「休み時間ともなれば図書室に入り浸っていた」経験もない。本を全く買わない人からすればさすがに読むほうかもしれないが、そんなわけで読む速度も遅く、いちばん数をこなした大学時代でも通読するのは年間に5-60冊が限界だった。

 そうなると必然的に文豪との接点が少なくなり、読んでいる数が少ないとなれば、愛読する文豪を挙げられないのも道理である。

 

 そんな貧弱な経歴で、何が楽しくて古本を集めているかと言えば、それは偏に「物体としての本それ自体の魅力」によるとしか答えられない。本、とりわけ近代の古本というのは、装丁の美しさはもとより、当時の時代を知るにはもってこいの現物資料だと思う。たとえば紙質がそうだし、フォント、印刷、奥付のあれこれ、手に取って眺めるだけで時間のたつのを忘れるものである。

 もっといえば、重版によって厚みが変わるとか、函やカバーのデザインが複数あるとかいうのは現物にあたるほか知りようがないことで、そうした新事実を掘り出すチャンスがあるというのも個人的には魅力と感じている。フェティッシュと言われようが、はなからマニアの世界である。

 

 このブログでは、そんな偏狭な視点で蒐集した本の話題を中心に、いろいろと思うこと、気づいたことを綴っていきたい。もとより文学の基礎知識すら欠いているため、書誌的に価値があるはずもなかろうが、あくまで個人的な備忘録である。調べ学習かそれに毛が生えた程度の記録でしかないことをここに表明しておく。

*1:といってこれにも限界がある。そも「新刊」に目を通す趣味はほとんどないので、相手が古本者でないと知った時点でこの話題を切り上げるのが得策である。