紙の海にぞ溺るる

或は、分け入つても分け入つても本の山

古本ドラフト争奪戦

 朝はどうにも動けなかったが、昼から古本まつりへ向かい、しつこくS林堂に詰め掛ける。もう単行本の補充はないとのことなのでちょうどよく、全体に思い切った値下げがなされていた。

 

高浜虚子『虚子句集』(植竹書林)大4年10月24日 500円

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 今まさに文アルで盛り上がっている高浜虚子である*1。復刻も出ている版の元版で、装丁もかわいい感じだったので試しに買ってみたところ、よく見たら伝説の「長岡蔵書」であった。

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長岡蔵書については古通の連載でいろいろ言及されることもあるが、この本については函欠だし特別美本というわけでもない。けれども有名な蔵書印が入っているだけで、なんとなく嬉しくなってしまうではないか。

 

②なでし子『やとな物語』(明治出版協会)大4年7月20日 500円

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 なでし子という著者は中央新聞婦人記者と書いてある。ネットで調べてみると、本名は中平文子(のち宮田文子)で、武林無想庵の2番目の妻だそうだ。ルポを書くために潜入取材を試みるほどの行動的な女性だったという情報も見られたが、その成果の1冊が本書である。

 本書はなでし子が「カフェー・やとな」に潜り込み、やとなの立場からその実情を探っていくというルポルタージュである。初めの数十頁を読んでみたが、これが実に読ませる。敬体で書かれているからということもあろうが、描写が的確で文章も非常に読みやすいのだ。青柳有美の序文では、以下のように評されている。

(…)なでし子さんが手に携ふるものは弥陀の利剣を凌ぐに足る鋭利な文筆の剣がある。之を縦横無尽に薙ぎ廻して驀然と突進したのだから素より野郎記者のやうに魔性の者共から頭を嘗めずり廻はさるゝ心配もなく、喰はれたり木乃伊になつたりする心配もない。近づけるところまで近づいて、充分に究むべきところを究め、目出度魔性の者共を生捕にして凱旋するを得たのである。是れ即ち虎穴に入つて虎子を生捕にしたものである。(…)

 正直、有美よりもなでし子のほうが遥かに文章がうまいと思う。やとなの事情は全く知らないし、ササっと読んでおきたいところだ。

 

* * * *

 

 午後はフソウ事務所に赴いた。とある棚が設置され、近代の本とか研究書その他の良本がとんでもない安値で並べられたのである。事前に仲間内で連絡が回り、ケンカにならないよう、ドラフトよろしくクジで決めた順番に従って1冊ずつ購入していく方式となった。

 とにかく眩しいラインナップなので、ガンガン購入させていただいた。

 

夏目漱石『漾虚集』(大倉書店)明40年3月10日訂正3版, 中村不折装画 橋口五葉画 1000円

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 クジで3番手だった私がまず抜いたのはこれ。ずっと欲しかった漾虚集の元版である。五葉と不折とのデザインが映える実に美しい造本で、外装がないから取れやすい背の題箋もちゃんと残っている。

 訂正3版というのは販売主曰く書誌的に重要*2ということで、どこがどう直されたのか知らないが、いずれ知識としてチェックしておきたい。

 

石川達三『蒼氓』改造社)昭10年10月29日6版献呈署名 800円

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 署名本好きとしては、これを買わないわけにはゆかぬ、と2冊目はこれにした。第1回芥川賞受賞作ということで持っておきたかった本でもある。

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 宛先の水島治男は改造社の編集者ということであり、回想録も出ているようだからちゃんと読んでおきたい。ちなみに『蒼氓』の署名入りは珍しいとのことである。

改造社の時代〈戦前篇〉 (1976年)

改造社の時代〈戦前篇〉 (1976年)

 
改造社の時代〈戦中編〉 (1976年)

改造社の時代〈戦中編〉 (1976年)

 

 

菊池寛父帰る(金星堂)大15年4月20日16版カバー 300円

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 金星堂名作叢書じたいはよく見かけるものの、カバーは案外希少である。残念ながら、私はこの個体以外に実物を見たことがない。ボロボロに欠けの目立つカバーで、本体背上部に傷があることを考慮しても、300円というのは値段が付いているうちに入らないと思う。

 その場に居合わせた先輩によると、汎用デザインながら帯も付属するらしい。そう聞くと1枚くらい架蔵しておきたくなってしまうが、そこまで追っかけていてはキリがない。

 

⑥鷹野つぎ『悲しき配分』(新潮社)大11年12月7日, 埴原久和代装 800円

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 鷹野は知らない作家だったが、藤村が序文を書いていることとか、仮にも新潮社から出されている作品集であることから気になって、先輩のリリース(!)分をいただいた。ネットで調べると、Wikiに立項される程度には名前の通った女性作家であるようだ。本作品集は後年、昭和61年に不二出版から「叢書『青鞜』の女たち」の1冊として出されていて、叢書名からわかるように平塚らいてうなんかとも付き合いがあったらしい。

 表題作をちらっと読むと、子育てに苦労しているお母さんの視点が淡々と描かれていて、当時の生活ぶりがうかがえる。

 

 そんなこんなで8000円超抜かせていただく。

 で、いつもお世話になっているムシャ書房主人がまた面白い本を追加しに来たので、そこからも1冊。

 

佐藤春夫『閑談半日』白水社)昭9年7月5日初版函献呈署名 8000円

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 値札を見、献呈本ということがまず分かったのだが、佐藤春夫の署名自体は珍しくない。一応献呈先をチェックしようと見返しを開くと、なんとあの「校正の神様」神代種亮宛だったのだ。

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 献呈本は即売会でよく引き当てる方だと思うし、目録でもたまに注文することはあるが、宛名を見てのけぞったのは本当に久しぶりだった。よくみると神代の手によると思しき書き込みも見られるし、しかも表2には斎藤昌三の蔵書票まで貼り付けられ、本としては血統書付きともいうべき逸品だと思う。

 ちょっとキツい額だったが、モノの良さにしては安すぎると思ったので頑張って買っておく。よく考えたら、ありふれた署名とはいっても佐藤春夫の筆跡は未所持だったのでちょうどよかったかもしれない。

 

 ところで、今日事務所には胡蝶本の函付きがズラッと23冊展示されていた。なかなかこういう風に揃いで見かける機会はないと思うのだが、そこで「欠けている2冊を当てよ」という出題をされた。とはいえ、もちろん分かりやすい鴎外とか谷崎は全部あるし、じっくり眺めても一向に答えは思いつかない。降参して正解を聞くと、果たしてどちらも聞いたことのあるタイトルではあったのだが、悔しいことに片方は鏡花の『三味線堀』だったのだ。

 一般にはマイナーでも、鏡花唯一の胡蝶本に考えが至らなかったのは甚だ情けない、初版本蒐集家の風上にも置けぬ無知ではないか。この世界に迷い込んだ以上、胡蝶本くらいはソラで全部言えるようにしなくてはいけないなぁと思う。経験が浅いのだから、無理やりでも知識を詰め込んでいかなくては、この道での会話についていけなくなってしまう*3。何事も勉強、である。

*1:虚子の登場はまあ納得できるのだが、河東碧梧桐まで出てくるとは驚いた。尤も、子規の弟子として双璧をなすというのはその通りだから、今回催されているイベントのごとく、セットで出すというのは理にかなっているとは思う。

*2:私見では、重版の魅力はここにこそある。ぶっちゃけた話、初版ということであれば復刻が出されているから、体裁としてはあまり面白くないとも思える。それよりも『漾虚集』とか斎藤茂吉『赤光』とかのように、重版で訂正や「〇版序文」などの追加要素がある方が、買って得をした気分になれるというものである。

*3:私が狂ったような量を買い続けているのも、この点に理由がある。古書展の場などにおいて本を見ることも刺激にはなるし、そこで学べることも少なくないのだが、やはり買わなければわからないことも多い。家に帰ってゆっくり矯めつ眇めつし、(私の場合)ブログに文章としてまとめる過程で気づくことが非常に大きいのである。古書の妙味はここにこそあると思うし、探求している作家の本だけを買っていくのはどうも性に合わないらしい。