紙の海にぞ溺るる

或は、分け入つても分け入つても本の山

冷たい雨を歩いて

 シュミテン。しかし折悪しく雨であった。またようよう訪れた寒気が本格化しだしたところでもあり、寒いことこの上ない。

 コーヒーを飲んで暖をとったのち9時半ジャストに到着すると、すでに列は開館の中に引き込まれていた。だからというわけでもないが、ふだんより人混みが落ち着いて見えるのもまた、雨のせいであろうか。

 

 フソウの棚はいつもよりタスキがけのものが多いような印象で、小耳にはさんだところでは、今回は本の用意が少なく、補充もないとのことであった。あまり公言することではないかもしれないが、フソウさんはいつまでこのペースでお仕事を続けられるのであろうか。若きコレクターとしては伝説の「一人展」に参加できなかったことを悔やむばかりであるけれども、フソウさんなくしてこの水準の収集は続けられそうにないと思うのが正直な感想である。

 今回の内容としては、これという大物も発見できず、棚には尾崎一雄の署名本とか尾崎紅葉がやたら多いような印象はあった。

 

尾崎紅葉『浮木丸』春陽堂)明35年12月12日3版, 武内桂舟口絵 2500円

f:id:chihariro:20191127133353j:plain

 初っ端の最上段からはこれだけ。一瞬出遅れたためというのもあろうが、私の出端としては弱い。

f:id:chihariro:20191127133837j:plain

 とはいえこの価格で口絵が付いているのだから嬉しい。ほかに口絵付きの齋藤緑雨『かくれんぼ』や口絵欠の『片ゑくぼ』なんかもあったが、そちらは手放した。いや、口絵欠であっても確か2千円しないくらいの値段で、お買い得には違いなかったのだが、外装欠よりも本体の瑕疵である分、手が出にくいのだ。

 

尾崎一雄『沢がに』(皆美社)昭45年7月10日函帯献呈署名, 朝井閑右衛門装画、石原八束意匠 2500円

f:id:chihariro:20191127130003j:plain

 珍しくもなんともない戦後の本である。もっと言うなれば同書はすでに献呈署名入りで入手してはいたが、宛名が比較的よかったので買っておく。というか、これだけ尾崎の署名がゴロゴロ転がっていて買わないというのもなんだか惜しく感じられただけの話である。

 上司海雲宛の署名本は市場にもあふれかえっていて、これとて珍しいかというとそうでもない。一度(これは以前書いたかもしれないが)志賀直哉から海雲に宛てたものがヤフオクに出たが、確かつまらない本(『秋風』だったか)で1万円を超えたから諦めた覚えがある。

 あとから頁を繰っていると、全体に亘って訂正が書き込まれていることに気づいた。筆跡はおそらく尾崎一雄のものであろうと思うが、以前購入した献呈本に訂正があったかどうかは記憶していない。掘り出すのに骨が折れる。

f:id:chihariro:20191127130031j:plain

 

③徳永直『太陽のない街(戦旗社)昭5年1月20日, 柳瀬正夢装 2000円

f:id:chihariro:20191127130119j:plain

 版違いで蒐集している本のひとつである。すでに初版、3版、10版を持っているが、版数表記のない版は初めて買った。界隈で何と呼ばれるのか知らないので、便宜上「1万部版」と呼んでいる。

f:id:chihariro:20191127130942j:plain

 詳細は以前まとめたページをご参照願いたいが、版数表記なし版は部数が記載されており、これが2種ある。なお、確認している中では、今回入手した版が最後に出されたものだと推察される。

 あとは再版と7500~8500部本を入手し、ついでに復刻本(これの奥付は独自のもので、同じ表記がなされた原本は存在しないと思われる)を手に入れればコンプリート、となるだろう。

 フソウの棚に並ぶ同書は、もちろん初版など置いていないが、重版なら決まって2千円がつけられている。状態も悪くないから業界最安値だろうとは思うが、それでも他の価格を鑑みると、この本に出すにはちょっと高かったか。

 

小川未明『堤防を突破する浪』(創生堂)昭3年9月5日3版 1500円

 ――――『蜻蛉のお爺さん』(創生堂)昭2年2月10日再版, 池田永治装? 1500円

f:id:chihariro:20191127130420j:plain

 これらには蔵書印こそないが、相変わらず上笙一郎の蔵書だろうか。実をいうと童話本の相場感などほぼ持っていないに等しいのだが、著作としては大正期末のものに当たるので、いちおう買ってみた。

 『蜻蛉』の方は挿絵も魅力的なのだが、浅学ゆえ誰の手によるものか判断が付かない。巻末広告によると池田永治装らしいのだが、名前を如何様にこねくり回したらこの意匠になるのか、わからないから保留としておく。こういう挿絵画家のサインはデータベース化して、それだけで同定できるような目を養わねばなるまい。

 

北原白秋『兎の電報』(アルス)大13年6月10日10版, 矢部季装・挿絵、初山滋絵 1500円

f:id:chihariro:20191127132903j:plain

 これは嬉しかった。白秋の童謡ならもちろん『とんぼの目玉』が白眉であるが、『兎』はそれにつぐ第2童謡集に当たる。矢部季・初山両氏による挿絵が満載で、童謡のみならず画集としての楽しみも味わえる一冊であろう。

 早稲田のデータベースを参照すると初版の画像が挙げられているが、この10版とは全く装丁が異なるらしい。本書は目次に次いで「挿絵目次」なる項目があり、それによると、初版の「表紙」「外装」は初山滋が、10版では矢部季が担当している。また挿絵の収録にも異同があり、初版にあったカラー挿絵のうち、「兎の電報(初山)」「まゐまゐつぶろ(初山)」「夢の小函(矢部)」の3葉は10版になく、初版では中ほどに挿まれていた「蝶々と仔牛」が「兎の電報」に変わって扉となっている。

 カラー挿絵がすべてなくなったわけではないから技術的な問題とは考えられない。初版を見ると金の箔押しがあるなど、10版より豪華な造りであることがうかがえ、してみるに重版は廉価版的な位置づけだったのではないか。といって、装丁(表紙の意匠)が変更となるのはやむを得ないにしても、装丁者の交代までしている理由は不明のままだ。尤も、個人的にはこの重版の表紙の方が好みである。

 

 そのほか、いちおうの探求書を数冊拾ったが、全体にしっかりめの値段の本ばかりだったので、会計は3万を少し超えた。「迷ったら買えって、あれ嘘だよ」とはこの日先輩より頂戴した箴言だが、冷静に考えると当然のこととはいえ、衝撃であった。