紙の海にぞ溺るる

或は、分け入つても分け入つても本の山

東横日和

 東急東横の閉店が大々的に告知されたのがいつだったか、ともあれ記念の小展示やら思い出の募集やらにより、往年の渋谷利用者間でノスタルジックな盛り上がりを見せているようだ。

 私は世代的に、百貨店の記憶はほとんど持ち合わせていない。幼少期などは連れられて買い物に行くこともあったのかもしれないが、それとてバブル以後の話である。東横の終焉を惜しむほどの思い入れがないのも道理だろう。

 その東急東横での古本市は例年夏に開催されていたと聞き及んでいて、「最後の開催」と銘打たれた今回は、当初から予定されていたものではなかったらしい。記憶では、これまでに私が足を運んだことはなかったと思う。

 

 開場数分前に列らしき集団*1に加わるものの、書店のアタリをつけているわけではなかった。混雑のそこまで厳しくない会場を、俯瞰的に悠然と見渡していく。

 

夏目漱石『鶉籠』春陽堂)明41年9月1日6版カバー, 橋口五葉装 1500円

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 児童書や学年誌の附録が多くカラフルなフジイ書店がまず目についた。『とってもムーミン』が懐かしかったので拾い上げ、その流れで棚を眺めてゆくと、脈絡なくカバー付きの鶉籠に目を奪われた。咄嗟に「復刻では」という考えが頭に過るも、復刻にしてはカバーの痛みが激しすぎる。手早く抜き出して確認すると、さすがに重版ではあったが紛れもない元版。それも信じられぬような安値であった。

 架蔵の『鶉籠』はこれで4冊目である。重版裸汚→初版裸美→初版裸汚、と順番がやや理想と異なっているが、ようやくのカバー付は非常に嬉しい。ちなみに今まで買ってきた値段はそれぞれ大体4千円→1万円→3千円であったから、手ごろさで言っても掘り出し物であろう。正直、ゼロがもうひとつ付いていても驚かない(が、その場合は初版でなければ買えない)。

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 『鶉籠』の周辺には私が好むような近代文学はなく、本当にぽつんと刺さっている印象であった。巡り合わせとして見るならば運命的である。

 

②『早稲田文芸大観 第1巻 小説集 上巻』実業之日本社)大12年8月5日 2000円

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 『鶉籠』だけで満足しきった私が他に抱え込むような本はさほどなく、せっかく来たのだしといろいろな棚を物色していく。その中で探偵小説とか「中学二年コース」あたりの並んでいる区画を発見し、順に漁ってみると背の読めない本が1冊あった。抜き出すとどうやら早稲田系の作家の小説を集めた全集の端本らしい。いい作家が揃っているのは確かだし、時代的には私の蒐集範囲内でこそあれ、こういうのまで買っていてはキリがない。そもそも2千円は高い。

 しかし、なにかピンとくるものがあったので念のため頭のページから慎重に眺めてみたところ、以下のような蔵書印があった。

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翻刻するまでもなく「吉田絃二郎文庫之印」と読め、ああこれは絃二郎の旧蔵書だなと思い至った。旧蔵書だから何というでもなし、まして書き込みもないから資料としては不十分かもしれないが、早稲田の本で絃二郎の旧蔵というのは感慨深いものがある。

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 ちなみにこの蔵書印は、国文研の蔵書印データベースにも紹介されている。DBの印は『芭蕉翁絵詞伝』に捺されたものらしいが、コレクター心理からすれば、俄然、本書の方が味わい深いと言ってよかろう。

 その後ネットで調べたものの、2巻以降の情報は発見できなかった。オンラインで読める『早稲田大学百年史』には以下のような記述がある。

教職員の協力の例としてはこのほかに、文学部出身者が文壇に活躍する有志を糾合し、自ら選ぶところの文章を集めた『早稲田文芸大観』という叢書を出版し、その益金四六五円を寄附した。因に第一巻・小説集の扉には「大隈侯記念事業を援助するため」と銘記されている。(第3巻第6編)

となればハナから利益を追求しての出版ではないことになるから、2巻以降が企画倒れに帰着しても特段の支障はないだろう。

 

 ムーミンと、他に小川未明『月とあざらし』を含めて計4冊しか買わなかったものの、充実感はなべてならぬものがあったように思う。こういうイベントも、たまには足を運んでみるものである。

 

* * * *

 

 渋谷へ来たついでに、となりの原宿まで足を伸ばした。おしゃれなのか個性が強いだけなのかよくわからないが、ともかく尖った格好の若者で満ちた街である。私が紛れ込めばその武骨なスタイルは浮くであろうことは想像に難くなく、その不快感を堪えてまで赴いた理由というのは太田記念美術館にあった。

 2018年の夏に落合芳幾の展示を見て以来の訪問である。近くを通りかかるロケーションでないのと、規模の割に入場料が高いのが難点ではあるが、場所柄外国人も多く訪れるし、いいものを展示している美術館だと思う。

 今回の展示は「鏑木清方と鰭崎英朋」がテーマで、副題として「近代文学を彩る口絵」とあったから、明治文学も蒐集対象として見ている私にとっては見逃せぬ特別展である。

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 いわゆる家庭小説というあたりか、当時の人はよく活字を読んでいたものだなぁと呆気にとられる次第であるが、ともあれベストセラーになった作品群の口絵がずらりと並べられている。そのほとんどに簡単な梗概が付されているから、どういった場面がフィーチャーされているのかを意識しながら絵を見ることができた。

 ここで気になったのは「口絵では~だが、小説では~である」というような記述が散見されることで、口絵が必ずしも小説の場面を正確に描写したものではないという点である。実際には2場面に分かれている描写が1つになったり、本来は語られていない場面を描き出したりと、さながら現代におけるメディアミックスのごときアレンジが加えられているのであった。してみるに、口絵というのは挿絵以上に芸術性が高く、読者の目を引き付ける効果が期待されるものであり、多少内容と乖離しようとも構図として優れた画面を追求したということではないか。

 私などまだまだ尻の青いコレクターであるから、持っていない本且つ口絵付で入手したい本は山ほどある。今回の展示を見て、探求書の幅も広がったし、明治本の魅力も再確認することができたように思う。他方、勉強不足も多分に発覚してしまい、例えば尾崎紅葉『隣の女』はすでに持っている本だったが、口絵に登場する女性は、表紙に描かれたマツムシの音を聞こうと顔を出しているものと思い込んでいた。実際は、夜半聞こえてきた尺八の音に耳を澄ませているとのことで、未読の怠惰を恥じるばかりである。

 

③『鏑木清方と鰭崎英朋』太田記念美術館)令2年2月14日 1800円

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 図録は思いのほかしっかりした造り*2で、英朋の表紙が眩しい。パラっと見た感じでは、展示されている口絵は全部収録されているようだし、浮世絵ファンというより、近代文学マニアにとって良い資料になると思う。

 古本にはよくある「口絵欠」だが、その口絵のゆくえが予てから気になっていて、美術品として額装したい気持ちはわかるものの、そのように展示されている例はほとんど見たことがなかった。今回並べられた朝日コレクションを見て、なるほどこれは切り取りたくもなろうと合点がいく。と同時に、結句これらは本来付されているはずの書籍から引きちぎられた絵であるから、古本コレクターとしては複雑な心境であった。

*1:エスカレーター前に並んでいたが、あれが古本市の列として形成されたものなのかは不明。

*2:前回見た芳幾の折は、コピー本みたような図録が販売されていたように記憶している。