紙の海にぞ溺るる

或は、分け入つても分け入つても本の山

宣言解除の鉱脈

 「日本の古本屋」を見ていると、ある店に特定の傾向を持った蔵書群が入荷したのがわかってくることがある。それが私の蒐集範囲であれば、経済的問題に抵触しない範囲でゴッソリ買い占めることになるのは必定と言えよう。こうした収穫の見込める品ぞろえを、私は密かに「鉱脈」と呼んでいる。

 先ごろ発見した鉱脈は漱石に関するものであった。といっても元版とか袖珍本とかいった、いわゆる「初版本」に当たるものではなく、かつて秀明大学でずらり展示されたような、海賊版に近いパロディ本である。

 

①簑村雨夫『漱石の猫は吾輩である』(精華堂書店)大10年9月*115版函 3960円

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 漱石の作品中、おそらくもっとも知られたものであるがゆえ、猫のパロディは他のものよりずっと多い印象である。いや正確には、タイトルがあまりに特徴的だからその模倣が目立つというだけの話で、話の類型その他においては実はそんなことはないのかもしれない。

 で、本書は猫のパロディの中でも比較的耳にする機会のあるタイトルではないかと思う。私が以前確認したものは、以下の写真にあるように表紙の上半分が黒い猫の顔になっていて、目だけが光っているように白く抜かれているというデザインであった。それが初版だったかなんだったかまでは記憶していないのだが、重版で変化するのだろうか。尤も、これはこれでかわいいものである。

 なお、本作はデジコレにて公開されているので、テキストだけなら容易に手に入る。

 

三四郎『それからの漱石の猫』(日本書院)大9年5月25日9版 2750円

 ―――『漱石傑作 坊ッちゃんの其後』(日本書院)大9年10月3日カバー 3300円

 ―――『漱石傑作 虞美人草後篇』(日本書院)大13年12月12日再版函 3300円

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 三四郎といえば『それからの漱石の猫』が有名で、漱石作品にタダ乗りを続ける厚顔無恥な人物として古書の世界ではお馴染みである。兼ねて欲しいとは思っていたものの、古書展で見かけたことはこれまでになく、店頭にあっても『漱石の猫』のカバー欠くらいなものであった。

 やはり私としては、坊っちゃん関連本である『坊ッちゃんの其後』ばかりは何としても入手したいと思っていたから、安く手に入ったのは嬉しい。

 『坊ッちゃん』の序文には以下のようにある。

漱石先生の「吾輩は猫である」の猫を甕の中で殺して了うのと、向う見ずの「坊ちゃん」を、街鉄の技手のままうっちゃって置くのとは、惜しいと思うことの二つであった。

そこで、先づ「それからの漱石の猫」を公にしたところが、幸いに好評を得て、数ヶ月を経たぬ今日、既に十二版を重ぬるに至ったのは、著者の大なる光栄とするところである。

今、此の「坊ちゃんの其の後」を公にするのは、それがために図に乗った訳では決してない。只だ久しい以前から考えていた二つのことの残る一つを実行したまでのことに過ぎないのである。*2

  『漱石の猫』が少なくとも9版まであるのは知っていたけれども、この時点で12版。また『虞美人草後篇』の広告には15版と書かれていて、それもこれも原典のネームヴァリューの恩恵と考えれば、当時漱石作品が広く読まれていたというひとつの証左になろう。

 『漱石の猫』のカバーは今後も探したいところだが、『坊ッちゃん』『虞美人草後篇』の外装は珍しいと思う。そもそもが珍本ぞろいなので、今後もそう出会える物件ではなかろう。

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④横地永太郎『猫です私も』(横地永太郎*3)昭6年10月26日 2200円

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 題名も著者も、全く聞いたことのない本である。上記の注文先の在庫リストを繰っていたら発見したものだが、どのように検索したのか忘れてしまった。たぶん、「猫」で片っ端から見ていったのだと思う。

 タイトルからしてパロディ臭が漂っており、それだけでも買う価値はひとまずあったが、内容や文体も関連していれば尚好いことは言うまでもない。おそるおそる購入してみると、果たして書き出しが漱石の猫を踏襲していたので幸いであった。

猫です私も、しかし只の猫ではない「アイ・アム・エー・キャット」というた夏目の猫とは、頭のテッペンから尾のさき爪のさきまで全く違ったそうして、やせたそうしてきたない貧乏猫兼野良猫です、その上年が六十九歳で腸をわるくしたのが時々糞をたれる糞たれ猫です。

 冒頭を引用すると以上のようになり、かなり惹かれるわけだが、このテイストは冒頭と最終部にしか感じられない。目次を見ると難し気な内容が並んでおり、単に著者の言いたいことを猫の語りに仮託して著したものではないかという気がする。いや、創作というものは何においてもそういう側面はもちろんあるわけだけれども、そもそもの枠組みが漱石の猫、というところが面白いわけで。

 

⑤川本啓介『うらなり先生 上下』(夕刊デイリー)昭52年2月1日, 安達規人装4730円

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 興味のある戦前の本で3千円台なら、「悩んだら買う」を容易に実行できるラインである。ところが、いくら蒐集対象である「坊っちゃん関連書」であっても、戦後の、それもよくわからない著者の本に5千円ちかくを出すのには大きな抵抗があった。ネットでいくら検索をしてみても情報は見当たらず、定価すらわからないという有様。図書館の所蔵も確認できなかったから、きっとあまり出回っていない本なのだと自らに言い聞かせるように、我慢して購入してみた次第である。

 あとがきをざっと読んでみると、著者の川本は夕刊デイリーの専務・編集長であり、連載を依頼していた作家の筆が遅いのにしびれを切らして、穴埋めに本作を書いたということがわかった。夕刊デイリーというのは延岡に本社を置く新聞社で、宮崎県北を中心に読まれている地方紙らしい。ということは、広く見積もっても九州でしか読まれていなかった新聞小説ということになるだろう。

 上下巻という体裁ながら奥付は下巻のみにあり、記載された価格も上下セットのもの(上下セットで3千円)である。おそらく書店に並べられたのではなくて、紙面上で通販のように販売されたものではないかと思っている。そうであるとするならば、流通が少ないのも道理である。

 正直言うと文章がうまくない。漱石の文体を真似るところまでは求めないが、著者が書きたいことを詰め込み過ぎ、やたらと史実・伝承に忠実にしようとした結果、全体の印象がクドくなっているのが残念である。私ごときが指摘するまでもなく、「坊っちゃん」はそうした厳密な作品ではない。漱石が一気呵成に書き上げた勢いというものが、ここにはまるで活かされていないのだ。まあ確かに、他の後日譚系パロディが原作に倣っているかというとそうでもないのだが、元が小説家でなく編集者であるという特性が悪い形で表出してしまった印象である。

 

 実はこれ以外にも漱石関連の品は数点落手している。あまりにも本を買わな過ぎているのが不健康に思え、一気に買いあさったわけだが、これにてようやく今月の古本予算を使い切れたような恰好。貯蓄に回さない愚かさにも薄々気づいてはいるけれども、これも業界に金を「落とす」という意味ではある種、尊い出費だと思う。

*1:奥付を見ると、初版から10版までは月日まで表記されているが、11版と15版と(12-14はなし)は月までしか表記されていない。

*2:引用註:入力の便から、旧字は新字に改め、仮名遣いは現代式に書き換えた。

*3:発行所として著者名がクレジットされているということは、自費出版のたぐいなのだろうか。