紙の海にぞ溺るる

或は、分け入つても分け入つても本の山

空振り、豪雨

 うっかり休みを取り忘れたマドテン当日。ふと、休日でなくとも、早めに切り上げさえすれば仕事と仕事の合間を縫って神保町詣でが叶うのではないかと思い立った。ただでさえ下賤の身の上では日々のストレス甚だしく、古本で少しでも癒しておこうという算段である。

 

 9時過ぎくらいに会館前をのぞき込むと、いつもと変わらぬ列が形成されている。どうも前回のシュミテンの如き整理券は配布されないものらしい。あまりスタッフの負担を求めるのも酷というものだが、整理券を配布して10分前あたりに再集合という形態は恒常的に実施しても良いのではないかと思ったりする。早く来た人が先に入れるのは同じことだし、殊炎天下に棒立ちで開場を待ち続けることに意味があるとは、私にはうかがえない。まあこの長い歴史で為されてこなかったのだ、普通に考えて何か私の与り知らぬところで差し障りがあるのであろう。

 

 で、少し時間をつぶして9時半くらいにならび、荷物を預けて地下で大人しく開場を待っていると、入り口に掲示されたマップがやけに閑散としているのに気づく。棚間が広いのは快適なのでよいが、アキツと蝙蝠までも会場販売を行わないというのは誤算であった。目録には掲載されていたので油断しきっていたけれども、どこかで告知されていたのだろうか、開場を目前として肩を落としたことであった。

 と、なるとふだんの傾向から言って、私の目指すべきはケヤキくらいなものであろうと早足に棚へ向かってみるも、やはりどうも拾えない。気分が一気に落ち込んだこともあって、逆に居直りを決めて悠然と眺めてゆく。

 

①木檜恕一『住宅と建築』(誠文堂)昭4年1月10日12版函 660円

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 ケヤキではほぼ拾えず、なぐさみに黒っぽいギョザン堂を見てゆく。文学系、というより美術系の本が目立つ中から拾ってみた本。背には「大日本百科全集」とある。

 昭和ごく初期に「文化住宅」が乱立し始める中で、いかにして住みよい環境を整えられるかを述べたのが本書である。ところどころに写真や図解の入っているのが分かりやすくて良く、また項目の細かさも魅力的だ。居間や台所ならいかにもありそうなものだが、家具建材や壁紙まで検討されているのが面白い。

 たとえば「書斎の家具」については以下のようにある。

書棚に於ては、書物を良く整理整頓して不体裁に陥らず、而も其の見出しを便利にし、且つ之が保存を安全ならしむる装置を施すことが尤も肝要な条件である。(p.208)

当たり前のこととはいえ、実に耳の痛いことである。

 こうした当時の建築についての記述、文学を紐解くうえでひとつ重要な資料ではないかと思わぬでもないのだが、その向きからの研究はすでにあるのだろうか。

 

②『中央公論 第52巻6号』中央公論社)昭12年6月1日 660円

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 中央公論は好きな雑誌ではあるが、こんなものまで漁りだすくらい、他に手に取るものがなかったという証左である。

 本号は中野重治「汽車の罐焚き」の初出号ということで購入した。が、特段好きな作家というわけでも好きな作品というでもない。ただ「ああ、これが初出か」との浅い感慨があったのみである。

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ほかに中本たか子「受刑記」、三好十郎「地熱」と、プロレタリア色が濃く、資料として持っておいてよいだろう。

 

③『中央公論 第52巻9号』中央公論社)昭12年9月1日 660円

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 先に挙げたものの隣に並んでいた。しかしこのテの雑誌に600円は高い。

 小栗虫太郎「金字塔四角に飛ぶ」の初出誌として買ったものだが、ほかにも日夏耿之介永井荷風の芸術」とか佐藤俊子(田村俊子)「残されたるもの」とか、こちらも読みごたえは確かである。

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 で、ちょっと調べてみるとこの号は発禁処分をくらっていたようだ。城市郎『発禁本百年』によれば〈『国家の理想』(矢内原忠雄)と『剛と柔』(近松秋江)の二文が八月二十三日に削除。〉とのこと。これを受けて当該箇所を確認してみると、なるほどそれぞれページが破り取られている*1

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 発禁本を特に集めているわけではないが、近代文学を蒐集していれば必ずぶつかる壁のひとつであろう。これまでにも発禁本とされる本*2を買ったことはあるが、幸いなことにほとんどが無削除版で、ここまで派手に破られたものは初めて入手したように思う。削除版という虚しさもありつつ、今回のように収穫の弱い日にあっては辛うじて拾い物ができたというところか……。

 

 どうにか来た甲斐はあったと口に出せる程度の買い物はしたけれども、たかだか3千円の支払いである。気分は満たされない。

 店の均一でも漁ろうかと靖国へ出ると、にわかに雨が降り出した。雲行きからすればすぐ止むと思われたが、本屋にとっては命取りの雨である。早足で田村へたどり着くも「残念ですが閉めます」と布をかけられてしまった。

 あえなくスゴスゴと昼食を済ませ、まっすぐ帰宅。無聊を託つ中で向かったにもかかわらず、却って欲求不満を募らせてしまった格好である。来週のシュミテンに賭けたい。

*1:ノド近くに残存した部分を見ると、かなり伏字の多いことがうかがい知れる。対策を講じてなお、当局には削除されたということである。

*2:これまで入手した本に限らず、城市郎の発禁本関連書は少しく不正確な記述もあるという話である。発禁処分を受けたことは確かでも、それが当該の版のものであるかどうかは慎重に判断しなくてはならない。