紙の海にぞ溺るる

或は、分け入つても分け入つても本の山

夢を求めて神保町へ

 古本仲間からのタレコミがあった。曰く、「フソウ事務所の棚が新しくなっていて、アレとかコレとか、良い本がリーズナブルな価格で出されている」というのだ。土曜日を休みにすることはどうにも叶わなかったが、それを聞いて尚足を運ばないのはコレクターの名折れである。睡眠時間を削りに削って、古書展のない神保町へ訪ったのであった。

 久々に行った事務所は大きく様変わりして見えた。カッチリと黒っぽい古書で埋められていた棚ばかりであったのが、3本は白っぽい研究書系や文庫で占められ、2本がお買い得な黒っぽい本になっていたのである。それとて全体の棚からすれば半分に満たないのだが、質があまりに高いので眺めていると時間を忘れてしまうし、もっといえば欲しい本が多すぎて財布の心配が先行してしまう。

 

①岩野泡鳴『猫八』(玄文社)大8年5月1日函 1500円

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 泡鳴をすごく集めているわけではないけれども、なかなか見かけない本だと思う。装丁が魅力的なのは某版道さんによる「お年玉プレゼント」を見て知ってはいたので、いつか現物を拝みたいと思っていた。

 よく見ると本冊の背は改装だが、あまり全体の雰囲気を損ねてはいないと思う。それにしても函付きでこの値段は「業界最安値」で間違いなかろう。なお、装丁者は現在のところ不明。

 ともあれ表題作「猫八」が初代江戸屋猫八のことを指すということすら知らなかった私にとっては、宝の持ち腐れもいい所である。少しずつ読んでいこう。

 

中原中也ランボオ詩集』書肆ユリイカ)昭24年9月20日2刷帯 12000円

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 野田書房版と比べれば、ユリイカ版は古書としての重要度が一枚落ちることに異論の余地はないだろう。私とて、もし2書が並んでいたら野田書房版の方が欲しい。

 けれども、再版であっても「極稀帯」と書かれてしまっては買っておきたくなるのが哀しい蒐集家の性というものである。まあ中也じたい、トップクラスに関心があるかというとそこまでではないにしろ、好きな詩人であることは確かなので今後のことを考えて購っておいた次第。

 棚に刺さっている他の本と比せば高かったが、悪くない買い物であろうとは思う。

 

三四郎『皮肉社会見物』(日本書院)大11年2月5日7版, 著者自装? 1200円

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 『それからの漱石の猫』でおなじみの三四郎である。以前「日本の古本屋」を通じて代表作を購入していたが、これで全部そろったのではないだろうか*1

 内容としては、タイトルにある通り、当時の社会に対して風刺というか皮肉というかをクドクド述べたもの。直接の言説に加えて、寓話風の小噺が交えられており、読み物としては面白いのだけれども、全体に何となく一本調子で最後まで読み通すのには忍耐力が要りそうである。

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 巻末の刊行物一覧を見ると、似たような社会風刺系の本が日本書院からたくさん出されていることが見て取れる。『漱石の猫』『坊っちゃんの其後』がこの並びに列されていることは、これらのパロディ本の受容として、ちょっと頭においておくべき事実かもしれない。

 

 事務所でしばらく歓談に耽っていると、ムシャ書房主人が新入荷の本をもって現れた。某大学の除籍印のない口が出現したとのことで、ラベルや印で厳しい状態ながら、本としてはなかなか良いものが集まっているようだった。

 

小川未明『紫のダリヤ』鈴木三重吉)大4年1月28日, 津田青楓装 2000円

 徳田秋声『密会』鈴木三重吉)大4年4月11日, 津田青楓装 2000円

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 あまり見かけない叢書である。見かけないのだが、この現代名作集とか金星堂名作叢書みたいな薄手の並製本に1万円近い額を出すのはちょっと難しいわけで、手ごろな値段で手に入れられたのは嬉しかった。

 数冊ある中からこの2冊を選んだのは、居合わせた先輩の御助言による。「買うならこれとこれだね」と。いや全部買ったとて後悔はないわけだけれども、他の買い物の大きさもあって、1日の出費としてはそれなりの会計になるのが恐ろしくも感ぜられたのである。

 

長田幹彦『船客』春陽堂)大2年2月19日, 橋口五葉装 800円

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 色調の鮮やかな装丁に惹かれてページを繰ってみると、果たして扉絵には五葉の落款が入っていた。安いのはいいことだが、美装丁であるだけに一層シール貼り付けが惜しいというものである。

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 で、事務所の机上に積みあがった「私が買う本」の山にこの本を加えておいたところ、先の先輩から本書が幹彦本でも珍しい1冊であるとの指摘を頂いた。造本から想像できる通り、元は函が付くという。そういうわけでイザ入手しようと思うと苦労するようなので、価値を知らなかった無知を恥じるとともに、知らずとも手に取った己の慧眼(というと如何にも不遜だが)をひと先ずは誇っておきたい。

 

 当初の予定より長居を決め込んでしまったので急ぎ足に神保町を後にしたのだが、帰りしな東京堂へ立ち寄る。

 

山中剛史『谷崎潤一郎と書物』秀明大学出版会)令2年10月1日カバ帯, 真田幸治装 3080円

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 古書の世界の先輩、山中剛史さんが上梓された初の単著である。刊行予告が出されてから、ずっと心待ちにしていた*2

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 内容としては、氏がこれまでに『日本古書通信』や『初版本』などに発表した論攷に加筆を成したものがメインとなっていて、題名の通り、書物≒古書から見た谷崎論としてまとめあげられている。

 私は読書感想すら満足に書けないほど読み手失格の身分なので、あまり中身に踏み入った感想は差し控えるよりほかないのだが、本書は文学研究というお堅い分野と古本という趣味の分野とをつなぐ、新たな可能性を照らし出しているように思う。〈あれこれの来歴を背負った古書というその空間に進んで飛び込み、耽溺し、その渦中にありながらまたそれを理知的に捉え直すような、古書趣味と学問的理知のアマルガムである。(序 p.5)〉とあるが、一般の文学研究は「学問的理知」こそ多分に認められても、「古書趣味」に「耽溺」してそれを研究に持ち込むというのはこれまでにあまりなかった(というか成し得なかった)試みなのではないかと思う。その点、(失礼を承知で申し上げると)著者のマニヤぶりはまさに「病膏肓に入る」有様で、その趣味的な見識が如何なく発揮された1冊と言えるのである。

 これは個人的な煩悶だが、3年半ばかり真剣に古本と向き合い蒐集を続けていく中で、はたと自分が何のために蒐めているのか疑問に思ったり、古通などで先輩方が発表されているような素晴らしい研究成果の数々に羨望の目を向けることも1度や2度ではなかった。畢竟、趣味でやっていることなのだから経済的成果とは無縁で結構なのだが、もしもうまく探求目標(言うまでもなくブツとしての探求ではない)みたようなものを見つけられれば、1本筋の通った蒐集に励むことができるようになるのではないかとも思うのである。こう言うとすごく味気なく聞こえてしまうかもしれないが、山中氏の本は、そのひとつの答えを示しているように感じられる。

 読者への影響という観点で言えば、古本者にとっては文学研究への、文学畑の人間にとっては古本道への、よき架け橋たりえる書であろう。

 また本書じたいの装丁への拘りも並大抵のものではない。小村雪岱の文字を採集した題字、谷崎本の印象的な装画から引用された表紙絵、本冊表紙・裏表紙に刷られた著者の書架と、どれも古本的趣味に満ち満ちている。造本は氏の畏友であるところの真田幸治氏の手によっていて、丁々発止のやり取りを重ねて造り上げたと聞いた。再び引用となるが、〈精魂込めた文章をあり得べき最上の形態として書物という形に具現化(序 p.8)〉したというのは見事に本書にも当てはまっている。

 ここまでで引用したのは序文ばかりだが、それはとりもなおさず、序文に著者の書物観が見事に詰め込まれており、本書に通底するコンセプトを鮮やかに伝えていることを意味するのである。

 などと偉そうなことを書き連ねたが、読書における修業不足がたたって、まだ半ばまでしか読み遂せてはいない。研究書を真剣に、しかし学問的喜びを享受しながら読むのはずいぶん久しぶりな気がする。書影が思い出せないときには橘弘一郎『谷崎潤一郎先生著作総目録』を紐解き、休憩に際しては座右の古書を撫でさすり、ゆっくりと消化するように読書を楽しんでいるところである*3

 

谷崎潤一郎と書物

谷崎潤一郎と書物

  • 作者:山中剛史
  • 発売日: 2020/10/01
  • メディア: 単行本
 

 

 秀明大学出版会による文学書は、今後も目を惹くタイトルが畳みかけるように発刊される。いずれも著者と題目の組み合わせからして「間違いない」と思わしめる本ばかりであるから、どんどん己の糧としていきたいところである。

*1:後日調べたところ、ほかに『街頭警語』というものもあるようだ。まあ大金をはたいて買うほどの本ではない。

*2:ほんとうはAmazonで1ヶ月前から予約していたのだが、発売2日目を経てようやく発想通知の届く体たらくであったので、痺れを切らしリアル書店で購入してしまった次第。

*3:図らずも2冊購入したことが好く働き、片方は書き込みをしながら読み進めることができている。これとて久々の体験である。