紙の海にぞ溺るる

或は、分け入つても分け入つても本の山

お慰み神保町

 例年ならば古本まつりの時節である。ここ数年は朝一にS林堂のワゴンに詰め掛け、1戦終えた後は特選になだれ込み、あとから靖国のワゴンを冷かして廻るのがお決まりとなっていたわけだが、本年はかなり早い段階から中止が決まっていた。

 すずらんのブックフェスも中止で、その代わり各出版社が個々にセールをやるとかいう話だが、活気としては1枚も2枚も落ちることは言うまでもない。すこぶる残念である。

 

 その虚しさを慰めるためというのでもないが、神保町はフソウ事務所へ行った。

 

①和田博文『資生堂という文化装置』岩波書店)平23年4月26日初カバー 2400円

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 前回の訪店時、悩んで買わなかったもの。定価で買うのはちょっとしんどい、それこそブックフェスで安値を狙う類いの専門書である。

 印象としては大正期が中心だが、資生堂が大衆文化に与えた影響は甚だしく、化粧品のみならず食文化やアートにおいても、当時のくらしを語る上では欠かせないと思う。意匠部の件りも、古本者としては見逃せない。

 このテの本で重要なのは図版の量であろう。いかに情報を盛り込んで説明しようとも、伝達が文字媒体のみである限りにおいて、その視覚的な実態は読者の想像力に依存する形となる。写真が1葉でもあれば、かなり正確に当時の姿を伝えることができるわけだ。本書は前頁の下部が注釈に振られていて、図版は実に豊富である。これを見るだけでも面白いのがよい。

 

菊池寛真珠夫人 前編』(新潮社)大14年8月12日19版函

 ―――『真珠夫人 後編』(新潮社)大14年12月10日17版函 揃7800円

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 ずっと欲しかった本である。最悪裸でもいいと思いながらも、安く見つけられたことはこれまでになかった。やはり菊池寛の代表作のひとつでもあるし、装丁の美しさでも知られているだけあって競争率が高かったのだろう。文アル関連でも人気が高かったように思う。

 前後とも函の差込口あたりが少し欠けていて、だからこそ函コワレ的な値付けということらしいが、私としては全く問題ではない。むしろ函の背がこれだけ綺麗な本というのもめっけものだと目しているくらいで、本冊の平もそこそこである。

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 ある意味では、極美本でもなく崩壊寸前のイタミ本でもなく、読むにはちょうどよいラインかもしれない。こういう本ほど、初刊本で読めば格別の読書体験が得られようと思う。

 

長田幹彦『紅夢集』春陽堂)大5年9月18日 800円

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 これはムシャ書房店主が持ってきた新入荷品。前回に引き続いての幹彦本である。例によってラベルが張り付けられているのがやりきれないものの、『船客』と違って背下部のものはうまく剥がすことができたようだ。

 幹彦の本はまとまったかたちで見たことがなく、どんな本があるのか正直ほとんど把握していない。本書もそこそこ珍しいとは思うのだが、自信はない。おそらく函が付いて完本か。

 で、私らしくないことに読書意欲が高まっていたので、とりあえず冒頭の1篇「母の手」を読んでみる。

 母と2人きりで貧乏を懸命に生きてきた主人公は、大学を出、ようやく仕事の休暇を得られたタイミングで母と連れ立って旅に出かける。〈母が常々から一生に一度は是非参詣してみたいと云ってゐた善光寺を中心にして、甲斐、信濃の山地を歴遊して歩く〉旅程を立て、果たして東京を発って5日目には善行寺参りを達成した。ところが列車で帰路につく彼らに、大雨が襲い掛かる。なんとか近くの駅にたどり着き、娼楼に辛うじて宿を見つけるものの、翌朝になっても列車の復旧の目処は立っておらず、かわりに古賀から栗橋への渡船を利用することとした。順調に漕ぎ出したかに見えたが、濁流の勢いは未だ失してはおらず、主人公と母を乗せた船はあえなく転覆してしまう。一命をとりとめた主人公は、濁流にもがく中で自分に縋りつく手を必死で蹴落としたことを思い出す。病院で発覚した母の死によるショックと、蹴落としたのが母の手であったのではないかという後悔とで彼は心臓麻痺を起こし、死んでしまうのだった。

 と、いうのが梗概である。実際にはもっと考慮すべき要素はあるが、ともかく本筋は以上の通り。土地勘がないので検索してみると、問題の「古河」は茨城の西端、「栗橋」は埼玉の北部であるらしい。作中での渡船がどこから出たのかはよくわからないが、地図を見るに渡良瀬川利根川にそそぐあたりだろうか。時代的には、明治43年の洪水が条件に当てはまるように思うが、直接のモデルになったという証拠は得られていない。

 ともあれ、ちょっと頭を読むつもりが思わず惹きこまれてしまった。哀しい結末だが、読ませる魅力があったことは確かである。幹彦などこれまできちんと読もうとしていなかったが、今後気にしておきたいと思う。むろん、読む対象としての話である。