紙の海にぞ溺るる

或は、分け入つても分け入つても本の山

暖冬の明治本まつり

 東京での感冒罹患者が増えに増えているなか、界隈ではシュミテンの開催が危ぶまれていた。この半年超の流れを見ていると、数日まえに急遽中止が決定、というのも決してありえない話ではないのである。

 懸念を抱きつつも神保町へ赴くと、9時前だというのにすでに10人弱が並んでいる。例によって9時半ごろ整理券が配布され、10時5分前に開場となる。古書会館前には70人くらいが、鳥葬を俟つハゲワシの如くクラスタ化していた。

 前回と少し異なったのは、封筒と住所記入が入場直前になった点である。整理番号順に体温測定とアルコール消毒を済ませて封筒を箱に突っ込むや、階下に駆け下り荷物を預ける。すると、下の階に降りたところで誰も待っていない。どうもふだんのように開場時間まで最下層で待たせるということをせず、どんどんと会場入りが許されたらしいのだ。少し戸惑って出遅れたものの、番号はヒトケタだったので良い本はまだ残っていた。

 

田山花袋『第二従征日記』(博文館)明38年1月23日, 寺崎広業口絵 2000円

 ――――『花袋集』(籾山書店)明44年8月15日9版 1000円

 ――――『生』(易風社)明41年11月25日, 石井柏亭装 1000円

f:id:chihariro:20201124112141j:plain

 今日は明治の本が多い印象で、中でも花袋の本はいろいろと目についた。入場後、真っ先に手に取ったのは『従征日記』で、巻頭添付の地図か何かが欠のようだが、口絵は無事なので幸い。花袋が従軍記者をしていたころの手記ということで、序文は鴎外である。

 2冊目『花袋集』というと、易風社の上製本がおなじみだが、この並製版は初めて見た。易風社版(明41年3月28日初版)を引っ張り出してみると、表紙のデザインは引き継がれていないが、背は同じ。というか、易風社版の背の意匠が、籾山書店版の背と表紙とにコピペされているのだった。明治41年から44年の間に易風社がなくなり、版権が籾山書店に移りでもしたのだろうか。たぶんどなたかがすでに言及していることではあろう。

f:id:chihariro:20201124130158j:plain

 さすが天下の籾山書店だけあって、巻末の広告は錚々たるメンツである。

 

②西原柳雨『川柳風俗志 上巻』春陽堂)昭4年9月18日元パラ函, 小村雪岱装 2000円

f:id:chihariro:20201124122152j:plain

 これも入場直後に引っ掴んだもの。雪岱装として前々から手に入れたいと思っていた本である。

 復刻も出ているが、こちらとしては雪岱欲しさで買うわけだから、できれば元版の方が欲しかった。ただタイトルに「上」とあるからこれは端本なわけで、半端な本を買うのも気が引ける。しかし、以前みた復刻はそんなに分厚くなかったような気がしていた。

 と、悩んでいたところで先輩に確認すると、これは上巻しか出ておらず(そもそも刊行予定では上中下と出されるはずだった由)、これで完結とのことで一安心である。また本冊もかなり綺麗なのでお買い得との評を頂戴し、それも嬉しかった。

f:id:chihariro:20201124122221j:plain

 

小杉天外『にせ紫 前編』春陽堂)明39年3月15日4版, 斎藤松洲装

 ――――『にせ紫 后編』春陽堂)明39年10月10日再版, 斎藤松洲装 揃1000円

f:id:chihariro:20201124123609j:plain

 タスキには「重版 口絵欠 書込」とあったが、それでもまずまずの状態で揃いが千円というのは希有だろう。フソウ以外では絶対にありえない、と言っても決して過言ではない。

 で、帰って検めてみると前編にある中沢弘光の石版口絵は残っていて、欠落は後編の清方の木版口絵のみであると分かった。まあ確かに『にせ紫』の口絵と言って欲しいのは清方の木版だけれども、それでこの安値は非常に嬉しい。

 しかし装丁は誰の手によるのだろうか。表紙の下部、葉っぱの意匠に紛れてサインがあるのだが、判読できない*1

f:id:chihariro:20201124130303j:plain

以前に比べればだいぶ読めるようになった落款も、まだまだ経験が足りない。

 

④沖野岩三郎『白路を見つめて』大阪屋号書店)大13年2月10日10版, 蕗谷虹児装 1000円

 ―――――『薄氷を踏みて』大阪屋号書店)大13年2月10日5版 2000円

f:id:chihariro:20201124125741j:plain

 沖野の著作2冊、『薄氷』はムシャ書房の棚から。

 以前、沖野の『星は乱れ飛ぶ』を購入した際、読むでもなくパラパラめくっていたら、巻末に「前篇をはり」の文字があって唖然としたことがある。その続編が確か『白路』なのではなかったか。『星は』『白路』ともに大阪屋号書店発行で、装丁は蕗谷虹児。かわいらしくて好みである。

 『薄氷』の装丁者はいまのところはっきりしない。沖野の著作は大半が装丁者を記載しておらず、他の本の巻末広告ではっきりするパターンが多く、全容を掴みにくいのが難点である。しかし、大阪屋号と沖野の組み合わせでよくみられる蕗谷虹児装であるような気がしている。

 

太宰治『桜桃』実業之日本社)昭23年7月25日, 吉岡堅二装 800円

f:id:chihariro:20201124121410j:plain

 太宰の代表作で、帯もないし何を今さらという感じもするだろう*2が、これは実はちょっとした収穫である。

 『桜桃』には2種類の版本があり、奥付には違いがないものの、目次のページ数の部分に誤植のある版が存在する。私がすでに持っていた版がまさにその誤植版で、マニヤ心としては正規版も入手して眼前で見比べてみたいと予ねて思っていたのだった。

f:id:chihariro:20201124103549j:plain

 上にあるのがすでに持っていた誤植版で、下のが今度買った正規版である。漱石『明暗』初版に見られる3種の版のように、おそらく誤植版が先の版で、あとから訂正版が出たのではないかと思うが、まあ別にどうということはない話である。

 

尾崎紅葉『夏小袖』春陽堂)明25年9月1日 300円

f:id:chihariro:20201124120931j:plain

 後半。あるオジサンの持っている本が目についた。遠くからでも目を惹く青い表紙である。動向を見ていてもしや、と期待の眼差しを向けていたのだが、果たしてその人は本書を含む数冊を棚の下部にポンと置いたのだった。

 手に取ると300円という値付け。フソウさんの貼った付箋には「裏表紙欠」とあったが、国会図書館デジコレを参照すると外れている様子はない。

f:id:chihariro:20201124121020j:plain

というか、このデザインもデジコレを確認するまで単なる落書きだと思っていた。モリエールの肖像か。

 本書には尾崎紅葉の翻案であることは一切明記されておらず、作者当ての懸賞が催されていたことで知られている。裏表紙赤字の「作者不知」もこのことを示したものだろう。

www.shunyodo.co.jp 巻末にはその応募用紙があり、正解者は『夏小袖』の代金以内の春陽堂の本がもらえたようだ。今回手に入れた本はこの応募用紙が欠。それでもそう簡単に買えるような本ではないと思うので、これは嬉しい収穫である。

 

 今日は遠方から来た先輩もいらして、ゆっくりお話ししながらの漁書となった。古本としての収穫じたいも嬉しいのだが、こうした交流こそ古本道の醍醐味だと思う。なんだか特に今回はその楽しみを一層に感じた会であった。

 とはいえ30冊は買い過ぎ。あふれかけたカゴを会計に出し、値札剥がしと包みとをしていただくのはさすがに申し訳なく思ったことである。

*1:その後の調査で、斎藤松洲のものとわかった。

*2:といって実のところ、太宰は手ごろな値段ならほぼ無条件で買いまくっている。