紙の海にぞ溺るる

或は、分け入つても分け入つても本の山

2包みの本と二笑亭

 ふと思い立って検索してみたら、練馬区立美術館で開催の「式場隆三郎展」の会期が終わりかけていると分かった。ゆめゆめ見逃せぬ展示とはわかっていながら、足を運ぶのが億劫でここまで先延ばしにしてしまった己の怠惰を嘆きつつ、それでもマドテンの1日目に並ぶ。

 整理券の配布などはなく、会館入り口で体温測定+封筒回収があるくらいで、荷物の預けや最下層で固まって待つのも平常通りである。さすがにシュミテンほどではないにしろ、30人くらいが待っていたように見受けられた。なお残念なことに前回同様、蝙蝠やアキツは不参加のため、会場は大きくゆとりが確保されていた。

 

①村井弦齋『増補注釈 食道楽 春の巻』(報知社出版部)明36年9月10日15版, 山本松谷口絵 200円

 ――――『増補注釈 食道楽 夏の巻』(報知社出版部)明36年10月23日6版カバー, 水野年方口絵 200円

 ――――『増補注釈 食道楽 秋の巻』(報知社出版部)明36年12月29日7版カバー, 年方口絵 200円

 ――――『増補注釈 食道楽 冬の巻』(報知社出版部)明37年6月1日12版カバー, 年方口絵 200円

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 アキツ・蝙蝠がない以上、私が真っ先に向かうのはケヤキである。まあ走るほどではないと悠然たる足取りで棚に向かっていると、途中、赤ドリルの棚にある本書が目についた。

 見かける本ではあるが1冊千円とかは出せないと思いつつも手に取ってみると、各200円。夏~冬は揃って見つかり、カバー欠の春もすぐ隣に発見された。ほとんどカバーが残ってこの値段はお買い得だと思ったが、後から先輩に伺ったところ、この個体は先日の五反田にも出品されていたという。さぞかし他にも掘り出し物があったに違いない。

 この本は前々から読みたいと思っていて、というのも、以前ネットで読んだアイスコーヒーの記事が面白かったためなのだが、いま読み返すと当該書は『弦齋夫人の料理談』であった*1

 しかし冒頭を少し読んだだけで面白い。当時大ベストセラーになったのもうなずける、軽妙なストーリングである。文庫もいいが、元版はやはり格別とまで言うと、いささか調子が好すぎるか。

 

宮沢賢治『グスコー・ブドリの伝記』(羽田書店)昭20年9月30日3刷, 横井弘三装 300円

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 表紙裏表紙共に外れていて、遊びの1枚くらい欠けているのかもしれないが、300円ならよいだろう。「ブドリの伝記」は賢治の童話の中でも好きな作品である。

 羽田書店版といえば函入りの丸背上製本の印象が強く、重刷で並製になるのは知らなかった。束もこちらの方が薄いようだ。

 表紙の意匠について、表4に「宮沢賢治先生の故郷 花巻のオシシ」と手書きの説明が付されている。花巻の鹿踊りと検索すると花巻観光協会のサイトなどに情報が見られるが、同様の踊りは全国に見られるようで、それも興味深い。

 

夏目漱石吾輩は猫である岩波書店)昭5年10月15日1刷函 300円

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 裸ならすでに100均で買ってあったが、実は函付きをあまり見かけない本ではないかという気もする。大倉書店の『猫』は、元版に次いで耳付カバーでおなじみの縮刷版が129版まで出され、そのあとで岩波書店に版権が移ったという経緯だったか。まあ部数と装丁の問題もあるだろうが、古書の世界でも元版と縮刷版ばかりが重宝されている印象である。

 しかし表紙の絵は漱石の筆によるし、巻頭には漱石直筆の「猫の死亡通知書」が写真版で挿まれていたりして面白いと思う。

 

 他にも300円から500円くらいで転がっていた本、坂口安吾『不連続殺人事件』とか有島生馬『嘘の果』初版函背欠とか、安いながら粒ぞろいを12冊購入した。他に松岡譲『法城を護る人々』函付き3冊揃い(ただし中巻のみ函天欠)が800円というのはちょっと悩んだが、読むことはないだろうし何より嵩張るので買わなかった。

 このあとの予定に美術館が控えていることへの懸念である。

 

* * * *

 

 で、ずいぶん久々の練馬区立美術館である。2年前の2月にサヴィニャック、同年夏に芳年を見て以来か。

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 今回の式場隆三郎展は「脳室反射鏡」と題して、活動した分野ごとにその足跡を観られるということで、広島での開催時から楽しみにしていたのだった。

 

 何より資料の充実には驚かされた。こういう展示でガッカリするのは、復刻・複製資料ばかりだったり、写真パネルが中心の構成だったりすることなのだが、ここでは本や雑誌の現物がかなり揃えられていた。

 私の大好きな『二笑亭綺譚』に関しては、きちんとA版B版C版が並んでいた*2し、未所持の芋小屋山房豆本もあった。さらに驚いたのは、かねてより写真を見たいと思っていた「庶民の酒蔵 二笑亭」の外観・内装が、とある雑誌に掲載されていたことである。個人的にはかなり探したつもりだったのだが、建築系の雑誌はあまり知らないためか不覚を取った格好である*3。ともあれこの新事実には昂奮した。

 もう一つ衝撃だったのは、式場の第一創作集として名前ばかりが知られていた『自分の影』が平然と並んでいたことであった。あまりにもさり気なく置かれているので、稀覯本であることはふつうの観覧者には伝わらないだろう。ネットにも書影は転がっていないし、てっきり薄手の同人誌的なものかと思い込んでいたが、どうやら厚手のクロス装で、式場の限定本趣味がすでに発揮された1冊と見えた。あの感じだと函もあったのではないかと思わせる佇まいである。今後の探求を考えれば、ガラス越しにでもその姿を拝むことができたのは大きな一歩であろうと思う。

 未見の探求資料を2点も確認できたのは、ほんとうに嬉しかった。今までにいろいろと赴いてきた中でも、トップクラスに発見のある特別展だったと言っていい。というのも自分が探求している人物の企画展だったためなのだが、逆に言うとここまで深く興味を抱いている作家なり偉人というのはあまりいないのだなぁと痛感する。

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 二笑亭インスタレーションも嬉しい*4

 

 しかし本を抱えての周遊はしんどかった。ここまでくると、今年は千冊を超えぬように努めるのがやっとである。

*1:いま検索すると、この5月に復刊されたばかりらしい。メディアで話題になったとのことだが、復刊自体はあまり喧伝されていないように思う。

*2:ただしB版は丸背の初版のみ。

*3:家に帰って改めて検索をしたが、当該号は国会にも所蔵がなく、現状見る手段はない。

*4:しかし、本来二笑亭における「節穴窓」は中庭を向いていたものである。中庭を臨む写真や、「大谷石敷き」の空間の写真が残されていないから仕方のないこととはいえ、このインスタレーションのように「扁額の間」を覗く配置ではなかったことはひとつ理解しておかなくてはならない。