紙の海にぞ溺るる

或は、分け入つても分け入つても本の山

夏目漱石『鶉籠 虞美人草』

 今月、という実感すらなかったのだが、マドテンの日取りをすっかり忘れていた。なんと初日の金曜昼頃になってようやく思い至り、ああ、古書展ともずいぶん距離が空いてしまったなぁと痛感したことであった。

 いい面ももちろんあって、12月度は現状かなり買った本が少ない。金額的にはそれなりだし、少ないと言っても非古本者の1年分に匹敵する恐れもあるにはあるが、100冊とか購っていないのは個人的快挙である。そんな中、ネットから購入した本について書いておく。

 

夏目漱石『鶉籠 虞美人草春陽堂)昭2年3月20日95版函, 津田青楓装 2200円(含送料)

f:id:chihariro:20211222103204j:plain

f:id:chihariro:20211222103216j:plain

 ヤフオクでの落札品。お馴染みの縮刷版で、非常にありふれている本だし、ふつうなら函付きでもこの値段は出さない。が、この本の版数は非常に興味深いものだったのだ。

 漱石の書誌として決定版である清水康次「単行本書誌」*1は、初版から重版にいたるまでかなり詳細が充実しているが、さすがに100版近くまで出ていたりする縮刷には抜けが多い。まあそこまではやらなくてもいい、といえばその通りでもあろう。

 今回入手の95版は正確には抜けではない。書誌にはきちんと95版についての記載があり、書誌の上では最後の重版である*2。しかしこの書誌記載本は、今回入手の家蔵本と発行日が異なっていたのだ。

 書誌記載の95版は〈1925年*36月25日発行、日東印刷(株)印刷、定価2円70銭〉とあり、家蔵の95版は上に書いた通り、〈1927年3月20日発行〉で、印刷所と定価は書誌記載本と同じである。

 書誌を見ていくと、他にも同じ版数で発行日が異なるケースは報告されている。ザッと見たところ、『坊っちゃん』(新潮社、代表的名作選集)、縮刷『彼岸過迄 四篇』(春陽堂)、『夢十夜』(春陽堂)、縮刷『三四郎』(春陽堂)、縮刷『草合』(春陽堂)、縮刷『漾虚集』(春陽堂)、縮刷『鶉籠』(春陽堂)、『倫敦塔外二篇』(春陽堂)、と、これだけのタイトルにおいて同様の現象が起こっているらしい。

 こうした例のほとんどにおいては印刷所や定価がそれぞれ異なっており、そうであればまだ同じ版数でも複数のヴァリアントが存在することは頷ける。しかし、今回発見した本書および書誌に記載されたいくつかの例においては、印刷所も定価も同じであるのに印刷日だけが異なっているのだ。これについても、『鶉籠 虞美人草』のように年単位で間隔が空いていれば版数が混乱していても理解の余地はあるが、たとえば『鶉籠』のように、版数、印刷所、定価がすべて同じなのに、発行日が1ヶ月だけ違う本があるというのも謎を深めている。

 

 100年も昔のことなので、よほど決定的な資料がない限りは謎を解くことは叶わないであろう。深い理由などなく、ただ単に管理がいい加減だったというだけの話かもしれない。けれども一方で、漱石の本についてまだ謎が残されているというのは嬉しいことでもあろう。

 それはそれとして、届いた本が画像の通り極美に近い美本だったのは僥倖であった。所持する中では1番新しく、また1番きれいな本ということで、私の中ではメモリアルな1冊となった。

*1:『定本漱石全集 第27巻 別冊下』(岩波書店、令和2年)

*2:先輩はこの先の重版をお持ちだという。私もまだまだ嘴が黄色い。

*3:書誌では一貫して西暦を採用しているので、ここでもその例に倣う。