紙の海にぞ溺るる

或は、分け入つても分け入つても本の山

梅雨の戻り

 梅雨入りした実感もないまま梅雨明け宣言が出されて久しいが、東京は雨が続くようになった。35度とかいう狂った気温でないだけずいぶんマシではあるものの、古書展へ赴く身としては水濡れは絶対に避けなくてはいけないので心中穏やかでない。

 で、雨だから人は少なかろうと9時すぎに到着すると、屋根の下はすでに占拠されていた。しかたなく傘をさしたまま並んで待つ。9時半すぎにスタッフが顔を出し「整理券を配ります」云々言い始めるも、もはやそんな時刻ではないと当然のクレームが入り、1階ロビー内で待てる運びとなったのはありがたかった。

 

 今回もフソウ棚は1本少なく、またタスキ架けの面陳も従来より多めであった。いい本が出てこないとか、フソウさんの体力・気力的な衰え*1とか、要因はさまざまだろうが寂しいことである。

 

夏目漱石吾輩は猫である 上編』(大倉書店)明40年8月25日11版改装 1500円

 列の順番は悪くなかったにもかかわらず、どうもこれまでのように初っ端のバシッとした収穫は得られずにうろうろしてしまった。私の腕前不足は百も承知だが、ここ数回そんな感じだから、推して知るべき感はある。

 これは最下段の菊版雑誌に紛れてささっていたもの。背に「吾輩ハ猫デアル」とあり、元版だとは思わなかったがそうでなくてもとりあえず買っていたと思う。奥付や扉は残っているけれども表紙裏表紙ともにない。値段にしてはやや厳しい状態だったか。猫の元版は3セット持っていたので、これで3.3セット目ということになる。

 同じ改装に『夢二画集』もあったが、表紙のみならず扉や奥付もなかったため春の巻だか夏の巻だかもわからない状態。中身は悪くないけれどもさすがに、と戻してしまった。

 

鈴木三重吉『小鳥の巣 上巻』春陽堂)大5年5月13日元パラ函, 高野正哉装画, 夏目漱石背字, 大倉半兵衛木版

 ―――――『小鳥の巣 下巻』春陽堂)大5年7月4日元パラ函, 高野正哉装画, 夏目漱石背字, 大倉半兵衛木版 上下揃1500円

 三重吉全作集のうち上下初版の揃いである。本じたいはもちろんよく見かけるし、署名も月報*2もないからアレなのだが、元パラというか和紙のカバーみたいなものがほぼ完全に残っているので買っておいた。前回のシュミテンでもバラでこうした元パラ函付の美本が数冊転がっていたけど、いま思えば片っ端から買っておくべきであった。読んだ形跡は皆無で、表紙の彩色や金銀粉が美しい。

 

島田清次郎『地上 第2部』(新潮社)大9年1月18日 1500円

 『地上』はきっかり1セット持っていて、これ以上重版で拾ってもしかたないとスルーしてきたが、初版だったので確保。実は揃いで持っている中でも、第3部と第4部とは初版なので、これであと第1部を初版で手に入れれば晴れて「初版揃い」が出来上がることになるわけだ。

 澤村修治『ベストセラー全史【近代篇】』を見ると、初版の発行部数は第1部が3000、第2部が1万、第3部が3万とのことである*3。相対的に第1部が難関と言えなくはないが、それでも3000部出ているわけで、静かに機会を待ちたいところだ。

 

④溝口白羊『家庭小品 草ふぢ』(益世堂書店)明40年5月18日, 鏑木清方口絵 1500円

 棚に刺さった緑のクロス装を引き出すと、見たことのない家庭小説だった。作者を確認するとあの溝口白羊。「~の歌」シリーズが有名だが、正直作家としての評判は聞いたことがない。序文には〈「家庭文学」に関する書籍は、(…)皆文学といふことが主に成つて、家庭といふことはお添物に成つて居る〉〈家庭といふことを主にせねば何等家庭に益を及ぼさない〉とあり、この問題意識を持ってものした作品集のようだ。

 口絵はオフセットなれど清方。奥付も3色刷で手が込んでいてかわいらしいけれども、ネット検索の限り本書に関する情報はほとんど出てこない(国会にもないらしい)。表紙の汚損が激しいが値付けも値付けだし、それなりに珍しい本ではないかと思う。

 

⑤『春陽堂月報』20冊 800円

 月報は情報の宝庫である。意外な大物が寄稿していたり裏話が語られたりしていてパラパラ見るだけでも楽しいのだが、その後単行本などに収録されないケースが多い。「春陽堂月報 20冊」とだけ書いてあってパッと見には何の附録かわからなかったが、あとから調べると昭和ゼロ年代の『明治大正文学全集』の月報らしい。同全集はよく見かけるが、特に手に取ったこともないし月報があることも知らなかった。

 全60のうちの20とあって不揃いもいいところだが、やはり内容は滅法面白い。どころか、春陽堂から出された有名本についてのプチ発見もあった。これは既に知られたことなのか、少し調査しておきたいところである。

 この月報は復刻があり、『昭和期文学・思想文献資料集成』の1冊として出されているが、定価は5万円と完全に公共機関向けである。古書価も1万円はくだらないから、端本でもこの値段で手にできるのはありがたかった。

 

 ところで今回のシュミテン目録には、フソウさんの出品で志賀直哉の署名本が2500円で2冊出ていた。『豊年虫』函付と『革文函』裸である。いざ場に行ってみると、『豊年虫』はなかったが『革文函』の方は棚に面陳されていて、すなわち注文が入らなかったのだった。志賀直哉は好きな作家だがすでに署名入りで持っている本だし、まあ私がせずとも若い文学ファンあたりが注文を入れるのではないかと思っていたが、ここまで人気がないとやるせなくもなるというものだ。午後とか2日目まで持ち越せば誰か買う人もあったかもしれないけれども、ファンとして見逃すわけにはいかぬと買ってしまった。こうした由縁なき使命感が、蔵書家を苦しめている側面もあろう。

*1:といったって今の仕事量にしても業界屈指のモンスターである。なにしろ隔月のシュミテンに合わせて、毎月の速報目録を欠かしていないのだ。

*2:このシリーズに月報が挟まっていることを知ったのも、ここ1年くらいの話である。

*3:第4部についての記載はなかったが、まあ好評を博していたことから同程度であろうと思う。