紙の海にぞ溺るる

或は、分け入つても分け入つても本の山

3年ぶりのお祭り

 3年ぶりだという神田古本まつり、もうそんなに期間が空いてしまったのか、と気が遠くなる思いである。流行感冒はこうも容易く文化的活動を奪い取ってしまうのか。個人的に、この1年ばかりは速かったような濃密だったような、複雑な感じがする。古本における発見も少なくなかったし、たくさん嬉しい収穫もあったけれども、たとえば各出版社が自社のスペースでブックフェス的な催しをしていた(ブックフリマといったか)、あれからもう1年経ってしまったと気づくにつけて、己の進歩のなさを嘆くのは人間としてある意味正常なことではないかとも思う。

 まあそれはいいとして、初日の金曜は例によってS林堂のワゴンへ詰め掛ける。仕事が朝まで片付かなくて9時20分くらいに到着すると、ワゴンに接する1列目はすでに占拠されていた。馴染みの顔に挨拶をしつつ、先客の肩越しに本を眺め開始時刻を待つ。向かって右側にミステリ系、左側に純文系がおおむね並んでいるという感じ。事前にツイッターで目星をつけていた本もなくはなかったが、2列目では……と諦めていたが、果たして開始直後に気になる本のうち2冊は真ん前の客に抜かれてしまった。残念だがこればかりは仕方ない。

 

小山清『落穂拾ひ』筑摩書房)昭28年6月10日カバー帯謹呈箋付, 吉田健男装 3000円

 小島信夫アメリカン・スクール』みすず書房)昭29年9月15日第1刷カバー 3500円

 世代的には蒐集対象ド真ん中ではないが、割と好きな作品たちで初版本を欲しいと思っていた。『落穂拾ひ』の方は、それこそ3年前の青展で再版を千円とかそこらで買っていたが、このたび初版帯付にランクアップしたというわけである。キズはあるものの買える値段なのでよしとしたい。

 

鮎川哲也『白の恐怖』桃源社)昭34年12月30日函 2500円

 この辺までくるとさすがにふだんなら買わないラインにかかってくるけれども、しかし安いと思う。相場の半額くらいか。本作収録の論創社版が2017年に出て、それもいちおう定価で買ってはいた。今調べると1年後には光文社文庫から復刻版が出ていて、幻とはなんだったのかという感もあるが、まあお祭りだりS林堂だし、いい機会なので手に取った次第。

 

甲賀三郎『犯罪 探偵 人生』(新小説社)昭9年6月5日函, 恩地孝四郎装 3000円

 恩地孝四郎の装丁本としてずっと元版が欲しいと思っていたので、手ごろな価格で入手できてうれしい。そもそも恩地の名を知ったのは、コレクターになる以前の高校生の時分、単純な興味から神保町を歩いていて某書店の店頭に室生犀星『動物詩集』を見つけてのことだった。その後なんとなく魅力を感じて、これはどこだったか忘れたが本書の沖積舎版復刻を500円とかで買い、元版に少なからぬ憧れを抱いていた。

 と、書いて明らかなように、内容に重きを置いた興味ではないし、また相場でもせいぜい1万円程度だろうからその気になればいつでも買えた本である。しかしずっと以前から「存在を知っていた」初版本の入手は、しみじみと喜ばしい心地がするものだ。

 

 さくっと合計十数冊を一旦店主に預け、遠方から来京の先輩とともに古書会館へ歩く。通りも賑わい始めているが、やはりS林堂は異空間である。特選の会場には10時20分くらいに着いただろうか。むろん買うのはアキツの棚だが、まだ買える本は残っていた。

 

④『雑誌 金の船=金の星 復刻版別冊解説』(ぽるぷ出版)昭58年3月20日 500円

 『「作品」復刻版 解説・執筆者作品』日本近代文学館)昭56年4月30日 400円

 『「四季」復刻版 別冊解説』日本近代文学館)昭61年2月25日第2版第1刷 400円

 雑誌とか単行本とか、種々の復刻版の解説冊子はデータとして貴重であるから手元に置いておきたいものである。これは全集の月報とも通じる話だが、1点ずつネットで購めるとなると高くつくし、そもそも復刻版の全容を把握していないからどんな解説があるのかわからないのだ。

 だからこれらを手に取って、まあ少し高いけどいいか、と買ったのだが、家に帰ってみるとこのうち『四季』の復刻版はすでに所有していた*1。初版は平綴のペラペラ冊子だったのが、今回買った2版でクロス装の上製本になっているのだから、気づけなくても道理である。しかもタイトルも微妙に違っているから、蔵書リストを検索しても引っかからなかったのだ。処分に困るダブりだが、これも勉強と並べて保管しておくつもりである。

 

⑤Arthur Lloyd/一橋会英語部編『英訳独歩集 Model Translations and Dialogues』(英語研究社)大2年4月20日 500円

 独歩集の英訳というのは初めて見た。訳者は一橋の前身である東京高等商業学校で講師をしていたというが、発行の経緯がちょっと面白い。序文には次のようにある。

He believed there was nothing like translation for familiarising the student with the peculiarities of a foreign tongue. For his class work, therefore, he generally took up some popular Japanese novel, which he would re-write for his students in his elegant, cultured English.

 続いてその例として"The Confessions of a Husband""Golden Demon""England through Japanese Eyes"の3作が挙げられている。"Golden Demon"は『金色夜叉』だろうが、他の2つはなんだろう。と、思って検索したら"The Confession..."は木下尚江『良人の自白』、"England through..."は杉村楚人冠『大英遊記』らしい。『英訳金色夜叉』がLloyd訳なのは知っていたが、『英訳大英遊記』はさすがに知らなかった。

 本書については黒岩比佐子女史がブログに詳しく書かれていて、函付を8千円でかったとあるから、かなり珍しい本のようだ。

blog.livedoor.jp

森鴎外『青年』(籾山書店)大4年3月10日第2版 2200円

 再版に際して、なぜか函入りの胡蝶本から丸背カバー装に代わったことでおなじみの『青年』である。以前も書いたかもしれないが、かなり前のシュミテンでカバー欠400円というのをカゴに入れていたのだが、知識が足りなくて戻してしまい、先輩がそれを拾って「掘り出し物」と喜んでいたのに悔しい思いをしたことがある*2。再び手に取る機会を得たわけだが、これは布装。まあ改装のセンが濃厚だが、造本としてはよくできているし経年並みに傷んでいるのも悪くない。もしかしたら異装かも、とはやや高かった値段に対しての言い訳である。

 

 青展(というかS林堂)と合わせて3万くらい買い、寝不足もあって即離脱。翌日のブックフェスティバルにも期待しつつ、それでも下等なる遊民生活ゆえ休む暇はないのだった。

*1:しかも前回は200円で買っている。

*2:と書いてはみたが悔しさはさほどでもない。そもそも私が所有していたところで何に役立てるでもなし、先輩が購入したことでその本について一生忘れないこととなったのだから、むしろ勉強としてはかなりうれしい体験である。