上野をはしご
昨日の今日で上野へ出向いた。珍しく平日のど真ん中が2連休となったためだが、基本的に正しい生活を心がけていないので、今日も今日とて寝不足はなはだしい。展示を楽しむコンディションとしては最悪のひとつだろう。
1件目は科博。夏から開催されていた「昆虫展」にようやく訪うことができた。
実のところ虫は苦手なほうである。小学生の時分も虫捕りに興じた経験はほぼないし、そも多くの場合において素手で掴み上げることができない。東南アジア某国に長く滞在したことからゴキブリについては耐性が付いたものの、未だ絶対にさわれないのはセミだ。どうにもフォルムに嫌悪感を催してしまう。
それでもわざわざ見に来たのは、いわゆる珍獣に対する興味に起因している。兼ねて頂いていたチラシにはツノゼミの類の写真が並んでいて、これが実に奇怪であった。およそこんな生物が地球上に生息しているとは思われないほど、妙ちくりんな形なのである。そういうのがいるからには、まだまだ知らないことのたくさんある分野なのだろうと思った次第だ。
行ってみると、果たして勉強になる事項満載であった。まず昆虫の生態からして気にしたことすらなかった部分があるし、キャプションも丁寧に読んでしまった。お目当てであった珍らかなる標本もたくさんあって、じっくり観察できた。やはりチビッ子がわんさか来ていて、カブトムシを始めとするわかりやすい虫のコーナーはちょっと混みあっていた。休日ともなれば、人だかりで標本など間近で見られまいと思ったことだった。
①『特別展 昆虫』(国立科学博物館)平30年7月 2000円
科博の図録はやはり買ってしまう。贅沢を言えば、もっと精細な標本画像が多いと嬉しかったけど、この値段では十分かと思う。会場でも写真は撮ることができたし、気が向いたときにもっと勉強しておきたいところだ。
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2件目はトーハク。同館らしからぬマルセル・デュシャンの展示である。
デュシャンと言って作品を思い浮かべるとすれば、10人が10人、男性用便器にサインをしただけの「泉」を思い浮かべるだろう。私とてその例外ではなく、その他となると自転車のリムを椅子に固定した「自転車の車輪」くらいしか知らなかった。ツイッターの前評判では、若いころに描いていた絵画こそが見どころであるというので、そのあたりも期待して足を運んだ。
その口コミは間違いでなく、やはり絵こそが面白かった。上に述べた便器とか車輪については、そもそもデュシャンが最初に作ったオリジナルではないし*1、どこまで行っても便器と車輪でしかないのだから、眺めていたところで何も起きない。対して今回並べられた絵画は、印象派からキュビズム、未来派へと変遷してゆく創作の傾向が俯瞰できてよかった。こういう創作初期の試行錯誤、芸術とはいかなるべきかを模索していた時期を無視して、後期に没頭する「レディメイド」――一点モノ至上主義的な芸術の否定――を評価することはできないと思う。
で、件の「泉」はどんなだったかというと、今回の展示で一等物々しく飾られていた。既製品の便器を頑強なガラスケースで見せるというのは、デュシャンの意図と真っ向から反対しているような気がしないでもないのだが、さらに一歩引いたシニカルな見方をするならば面白いかもしれない。
ところでトーハクというのは、どちらかというと日本美術に関する展示に力を入れていて、現に今日もデュシャン展のとなりでは快慶・定慶展を開催していた*2。そこにあって今度の特別展は「デュシャンの向こうに日本がみえる」とされていて、デュシャン芸術のいくつかの性質が日本美術にも見出せるというのがポイントである。
といっても日本美術はオマケという感じでちょこっと展示してあるに過ぎなかった。確かにレディメイドは日本的なわびさびに通じる部分もあるし、デュシャンの超自然的な描写は錦絵(大首絵)と同じ発想かもしれない。実は「三代目大谷鬼治の江戸兵衛」を間近に見たのは初めてだったし、いくつかの発見もあった。しかしデュシャンをあれだけじっくり見た後では、ちょっと「つけたり」の感が強すぎる。客のひとりなど、学芸員に半ば詰め寄るようにして「オリジナルとコピーなんていうけど、あすこに飾ってある日本画はどれもオリジナルじゃないか」と言っていた。それはその通りで、デュシャンのいうコピーと、本歌取り的に画題を複写するのとではちょっと意味合いが異なってくると思う。私が展示の意図を汲み切れていないのかもしれないが、そのあたりを共通項とするならば、もう少し配置を工夫するとか丁寧な説明をするとか必要だったのではないか。
科博と打って変わってこちらはガラガラだったのが助かった。もしかつての鳥獣戯画展のようなありさまだったら、見学を諦めていただろう。「そうまでして便器を見に来ようと思わない」という意見があるとすればそれはすでにデュシャンを誤解している、と展示を見終えた今の私なら自信をもって言うことができる。
②マシュー・アフロン『デュシャン 人と作品』(フィラデルフィア美術館)平30年9月1日 3000円
厳密には本展の図録ではないようで、この展示に合わせてフィラデルフィア美術館が監修して出版された本とのこと。収録も展示とは微妙に異なるらしいのだが、シュリンクがかかっているのでまだ確認していない。ともあれ復習には格好の図録だろうと思う。
③『デュシャンの向こうに日本がみえる。』(東京国立博物館)平30年10月2日 1500円
これは買うかどうか迷った。今回のデュシャン展の、日本美術との比較の部分にフィーチャーしたもの。正直値段に見合うような優れた内容かと言うとそうでもないと思うし、②の図録だけでも十分なのだが、おとなしく記念に買っておく。
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帰りがけに新宿の紀伊国屋書店へ行った。楽しみにしていた新刊が出荷されたという報せを受けてのことである。
④真田幸治編『小村雪岱挿繪集』(幻戯書房)平30年10月17日初版, 編者装 3780円
真田氏は古本の世界における先輩。氏が手掛けた雪岱に関する本はこれで2冊目で、前回の『随筆集』も興味深く読ませていただいたが、今回のは挿絵のみの構成となっている。作品は時系列で並べられて「雪岱調」が確立してゆく様子を追うことができるし、また巻末の解説によれば、できる限りこれまでに知られていなかった仕事を取り上げるよう努めたということである。
むろん不勉強なので読んだことない作品がほとんどだが、挿絵として眺めるだけで非常に楽しい。また個人的には装丁がすごく好みだ。装幀家としての氏の手腕が如何なく発揮されている、とまで言うとわざとらしいだろうか。しかし正直な感想である。「絶対に編者にしか作れない素晴らしい本」とは某版道氏の評だが、全くその通りだと思う。