紙の海にぞ溺るる

或は、分け入つても分け入つても本の山

欠席の口上

 近代文学を蒐集している書痴にとって、今日のシュミテンが実質的な新年の幕開けだったのではないか。12月のマドテンから1ヶ月しか開いていないわけだけれども、年末年始はごたごたするものだから、何となく体感として久方ぶりの古書展という感じがする。

 

 しかしながら不肖私はというと、相変わらず興が乗らず、思い切って今日は神保町へ行くのをやめとした。例によって夜通し起きていて、朝方いざ出陣となるところが、どうしても出かける気になれないのだ。眠いとか体調が優れないとかいうのはいつものこと。これまでは、よしんば外に出ようと思えないことがあっても、まだ見ぬ良書を求める志が勝っていたから突撃もできたのだが、ここにきてその志が急激に衰えたようである。

 で、金曜に赴かぬのであれば土曜に行っても詮無いわけで、明日も行くつもりは毛頭ないが、夕刻を迎えても「やはり行っとくべきだったかな」という考えさえ過らないのは意外であった。これは決して、ツイッター他で散見される収穫の報告に、私をして食指を動かしめるものがなかったためではない。フソウ書房の棚の質から、また私の蒐集スタイルから言っても、シュミテンにおいてあれこれ漁っていれば、面白い本が全く発見できないということはないと思う。やや不遜な言い方に聞こえるかもしれないが、なにも私が慧眼を持ち合わせているということではなくて、人と違うところに価値を見出す傾向があるというだけの話である。

 

 ともあれ2年近くの間、シュミテンとマドテンに関しては初日の列に皆勤でこうべを連ねていたことを考えれば、我ながら驚嘆に値する心境の変化である。まあ、比較的若い世代、定年前の書痴の面々は金曜の朝から並ぶことなどゆめゆめできないわけで、してみるに初日に行かないことは古本道を諦めることに必ずしも直結するわけではないのだろう。ここで一旦、古書展から距離を置くことは、適切な購入量を目指すうえで健康的な選択であったように思う。

 蓋し、一度行かずに済んでしまったからには、次からも「行かなくていいや」となりやすくなるのは必然で、少し寂しくはあるけれども、それ以上に己の出不精に拍車がかかるのではないかという懸念の方が大きい。