紙の海にぞ溺るる

或は、分け入つても分け入つても本の山

雨の復帰戦

 春めいた気候となり花粉も吹き荒れ出したかと思いきや、一転して寒の戻りが訪れた一日であった。久々に朝イチでシュミテンに並ぶことにしたのだが、折悪しく東京は雨模様。並ぶのは6月以来だろうか。無沙汰で気合が入ったわけでもないが、8:40くらいに到着すると、すでに10人近くが列をなしていた。今回は整理券配布はされず、10時ジャストに開場となった。

 

夏目漱石『四篇』春陽堂)明43年5月15日, 橋口五葉装 2500円

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 真っ先にフソウ棚へ走るのはいつもの通りだが、今日はタスキ架けで面陳された本が極端に少なかった。一瞬戸惑いつつも数冊は確保、うち1冊が漱石のこれである。

 『四篇』は漱石本の中でも一番華やかな装丁ではないかと、個人的には思っている。『春陽堂書店 発行図書総目録』にも使われている五葉のデザインは、改めて手に取ると非常に魅力的である。函欠だし、値段なりに背がイタみ見返しも欠なれど、汚れは少なく全体の印象は悪くない。

 

②徳永直『太陽のない街(戦旗社)昭4年12月6日3版, 柳瀬正夢装 目黒生*1挿絵 1200円

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 いい加減しつこいくらいに買っている『太陽のない街』である。復刻版を含めると8冊目か。

 3版というのは数ある重版のヴァリエーションの中でも一番見かける版ではないかと思っていて、棚から掴み取った直後に版数を確認したときは少しガッカリした。しかし奥付をよく見ると、版数表記の真横にシールが付してあるではないか。

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 従来確認してきた3版は「昭和4年11月29日印刷 昭和4年12月2日3版発行」と奥付に直接印刷されているのだが、貼ってあるシールには「昭和4年12月3日印刷 12月6日3版発行」とあった。ふつうに考えたら納本対策か何かであろうとは思うが、上から貼らずに横に貼ってあるのはよくわからない。以前の記事にも書いた、近文復刻を制作するときに参考とされた「貼紙奥付」は、てっきり奥付全体を印刷した紙が貼られているものと思っていたが、してみるに、本書の如く印刷日・発行日の箇所のみの「貼紙」だったのかもしれない。

 今後の調査が待たれるが、それにしても貴重な1冊であろうと思う。もっとも、ここまで執着して集める人は当代で私だけかもしれない。

 

③庄野義信『文芸雑誌 新人 臨時増刊号(1巻2号) 死の書』(新人社)昭8年11月1日カバ折込附録付長尾桃郎蔵書票, 著者自装 1500円

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 煽情的な文句がつらつら書かれた表紙が気になって手に取ると、どうやら雑誌として出されたものであるらしい。本冊奥付には11月発行とあるが、カバーには12月発行とあり、ここでは本冊の11月を採用する。

 古書ニチゲツ堂のサイトでも紹介されているが、これはどうも庄野義信がかつて自費出版した同タイトル2分冊の小説集を、新作を交えつつ再構成したもののようだ。カバー表1にある文章を以下に引用する。

『新人』創刊号に別冊附録死の書を添附すべき所、本誌より尨大なる附録をつけることは雑誌協会の規約により不許可になりましたので、別冊附録死の書を分離し臨時増刊号としてここに発売しました

たしかに四六判で400ページを超える分量だから、雑誌の附録という趣でないことは確かである。

 と、ここで注目したいのが長尾桃郎の蔵書票で、これが貼られている以上は発禁処分を受けたのであろうと推定できる。手近にある城市郎『発禁本百年』を紐解くと、昭和8年の「その他の発禁本」「風俗壊乱」欄に本書の名前が列されていた。書名の末尾には〈「新人・創刊号」附録(12・1、十二月十五日発禁)〉と書かれていた。城の記述はアテにならないこともままあるのだが、ここで「創刊号附録」とされていることは注意を要すると思う。

 改めてカバーを外して本冊を見ると、表紙には「'新人'創刊号・別冊附録」とある。察するに、本冊じたいは確かに創刊号の附録として11月に作られていたものの、発禁処分を受けたために臨時増刊号=別の本として出し直すこととし、カバーを付けて12月の発行となったのではないだろうか。

 序文附記には〈検閲に対する顧慮から、各所に伏字をしました。(…)各所に伏字をすることは筆者の最も苦痛とする所でありますが、致方ありません。殊に『新人』創刊号から当局の忌諱に触れるやうなことがあれば、経済的に新人社が破壊されてしまいます。(…)〉とあるので、検閲対策はしたものの奏功しなかったようだ。投げ込みの折込附録は臨時増刊号むけのもので、〈(…)先に発行した創刊号は、別冊附録のない畸型にも拘らず、追加注文のある盛況で(…)〉〈既に千数百円の負債を抱えて(…)〉という記述を見るにつけ、気合で出したものの経済的にはかなり苦しい状況に至っていたらしい。

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 ネットで調べた限り、この『新人』の3号は確認できない。

 

横光利一『春は馬車に乗って』改造社)昭2年1月12日函署名, 中川一政装 2000円

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 順番は遡るが、最初に掴み取った2冊のうち1冊がこれである。ちょうど横光の署名本は持っていなかったので嬉しい収穫であった。同書は裸を800円で買ったことがあるが、背はかなりスレて読めなくなっていた。今回買ったこれは函背が傷んでいるものの本冊はまずまずで、署名なしでも2000円なら買えるラインの本だと思う。

 横光の署名はそこまで珍しくはないけれども、『春は馬車に乗って』の署名本はあまり多くないらしい。収録作としては『機械』なんかよりこちらの方が好きなので、ちょうどよかった。

 

 そのほか大量にあった太宰の仙花紙本から未所持の者を数冊拾ったりして、計17冊で16000円ほど。ちょうどリュックに入る量の買い物となったのは雨の日において誂え向きであったが、妙に小賢しくなったのか単に衰えたのか、買う冊数にセーブをかけてしまっていたのは少し情けない。部屋の圧迫感を考えれば正しいふるまいなのだが……。

*1:このたび改めて調査したところ、この「目黒生」というのは稲垣小五郎という画家・漫画家の別名であるらしい。