紙の海にぞ溺るる

或は、分け入つても分け入つても本の山

シュミテンに喉の渇きを癒す

 感冒下にあって2度目のシュミテンである。先週の例に倣い、休みを取らずに睡眠不足の体に鞭打って神保町へ向かう。早めに行って9時くらいに整理券を受け取ろうと思ったのだが、列が伸びるばかりでなかなか扉は開かなかった。前回ので効果がイマイチだったから平常通りに戻したのか、と思いきや、9時半前くらいに整理券配布と相成った。配布から30分経たずに会場ではあまり甲斐がない。

 で、10時5分前くらいに地下へ案内された。今回はキッチリ番号順で、しかも券を回収しつつ案内されたので道理にかなっている、と思ったのもつかの間、いつになっても「ハイ、ここまで」との区切りがなされず、おそらく40番を超えてもだらだら最下層で荷物を預けてゆくのだった。なぜか入り口前に溜まるのは禁止され、階段の方に一列になるのだが、いまさら意味がないのではないか、と思ったことである*1

 

 そういう状況であったため、前回ほど閑散とした感はなく、それでも人混みが棚にまとわりつくのがワンテンポ遅れた印象。12番目の私はもちろんかなり早い方なので、最上段、タスキのかかった本から手早く抜き取っていく。

 

吉井勇『生霊』日本評論社)大10年4月5日函, 広川松五郎装 茅原東学題字 1000円

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 吉井の本の中でも、かなりガッシリした部類であるように思う。本冊のクロスも綺麗だし、函の状態もまずまずである。

 なにより装丁がとてもよい。コウモリをあしらったシンメトリーなデザインと、題字がよく嵌まっている。先輩に聞いたところではフソウさんは安くつける本らしいのだが、そもそも買う人がいないのだろうか。かくいう私も、戯曲をいちいち読むかというと難しい所である。

 

夏目漱石吾輩は猫である 上』(大倉書店)明39年2月5日5版, 橋口五葉装

 ――――『吾輩は猫である 中』(同)明40年11月10日7版, 橋口五葉装

 ――――『吾輩は猫である 下』(同)明40年5月19日初版, 橋口五葉装 3冊揃4500円

 ――――『心』岩波書店)大3年10月1日3版, 著者自装 2000円

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 数ある蒐集対象の作家の中でも、漱石だけは重版が安ければいくらでも買ってしまう。造本の好いものが多いというのもあろうが、私にしては珍しく、作品への愛着があるというのが大いに係っている。

 『心』は2冊目、『猫』は通算でちょうど3セットが集まったかっこう。『猫』の背欠は残念であるが、この虚しさはここにとどまった話ではなく、何を隠そう、これまでに購入してきた『猫』上巻はいずれも不完全な状態のものばかりなのだ。カバーがないのは予算上かまわないとしても、表紙や背が欠けているのは美本志向の高くない私でも苦しいものがある。それにしても、下巻が初版というのはめっけものだろう。

 

③沖野岩三郎『宛名印記』(美術と趣味社)昭15年5月15日函限500署名句, 福田平八郎表紙絵 中村岳陵見返し 上村松園・島田墨仙・福岡青嵐口絵 高山辰三題箋 4000円

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 目録に載っていたが注文はしなかった。ちょっと値段が張るのと、普通版*2は所持しているし、そもそも限定版の存在を知らなかったから現地で確認出来たらしておきたく思っていたものが、注文されずに残っていたようだ。

 上村松園の口絵はいずれもオフセットで面白くないが、全体に造りが小ぎれいで、戦前の本という感じがしない。沖野の自筆による緑雨の句(伝)もよい。

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 フソウさんに聞いたら、500部といってもそうそう出てくるものというでもないようで、まあこれを縁と買っておいた次第。間抜けなことに、限定500部すべてに句署名が入っているのかどうかは確認しそびれてしまった。

垣越しに 物問われけり 春の雨 緑雨の句

 

高浜虚子編『春夏秋冬 春の部』(ほととぎす発行所)明34年5月25日, 下村為山装

 ―――――『春夏秋冬 夏の部』(文淵堂)明35年5月15日, 下村為山装

 ―――――『春夏秋冬 秋の部』(俳書堂)明35年9月7日, 下村為山装

 ―――――『春夏秋冬 冬の部』(俳書堂)明36年1月12日, 下村為山装 4冊揃300円

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 4冊まとめて縛ってあったもので、背の状態は悪く表紙にもタイトルしか書かれていないので、知らなければスルーしていたと思う。確か文アルに碧梧桐が登場したころ、ニホン書房で買うかどうか悩んだ末にやめとしたのだった。そのときの価格は覚えていない。

 さまざまな俳人の読んだ句を集めた本だが、春の部は獺祭書屋主人=正岡子規が選者、夏以降は〈春之部と同じく獺祭書屋主人の選に成るべき筈なりしが、其病重きが為め余等不肖を顧みず代って之を選抜するに至る〉として虚子および河東碧梧桐が選句にあたっている。

 装丁については『名著復刻 詩歌文学館 〈紫陽花セット〉解説』を参照すると下村為山とのことで、〈表紙は共に上質紙で、桜・矢車草・コスモス・水仙の花を配した二色刷り(p.180)〉とモチーフについても詳しい。出版社がコロコロ変わってる点も気になるのだが、それについての記述はないようだ。

 確かに状態は今一つかもしれないが、俳句史の中でも重要な(と思しき)位置づけの本が揃いで300円というのはどうなのだろう。各75円なんて投げ売りもいい所ではないか。安いのは好ましく嬉しい収穫であるとはいえ、虚しさもひとしおである。

 

長田幹彦『続金色夜叉春陽堂)大9年4月17日17版, 竹久夢二装 300円

 高須梅渓『近松の人々』(岡村盛花堂)大8年4月15日7版, 竹久夢二装 300円

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 例えば雪岱とか恩地とか、好みの装丁家は何人かいるにはいるが、それに沿った集め方というのはしていない。夢二とて、もちろん好きだし装丁本には近代文学において重要な本もあるものの、「夢二本」というくくりでの知識は浅薄である。

 今回購入したのも、幹彦の本は知っていたが梅渓のは知らなかった。従って相場も全く分からないのだが、この値段ならイタミ本でもいいと思う。

 梅渓の方には木版口絵も1葉付いているが、ネットで調べると数葉ついているような記述も散見される。

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単に欠けているのか、版によって綴じられていないのか、そのあたりはもちろん与り知らない。

 

石川達三『結婚の生態』(新潮社)昭14年9月12日110版元パラ函, 佐藤敬装 300円

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 よくある本だが、美本なので手に取ってみた。過去にも同じ本を函付きで買ったことがあり、それは54版だったが、その後半年で100版を超えたようだ。

 ただその54版がここまで鮮やかなピンクだった記憶はなく、もっと地味な、ちょうどこの本冊くらいのテイストだったように思う。しかし54版は別宅にあるのですぐ確認できないのが口惜しい*3

 

 発表するほどの大きな発見はなかったが、そのほか要調査物件が多く見つかってよかった。先週の雪辱を晴らしたような心持である。やはりシュミテンは、我々コレクターにとっては垂涎のイベントであると実感した次第である。

*1:こういうとき、声高に正義を叫ばないのが大人の対応である。変に声を上げてはすべておじゃんになってしまうことが目に見えているからだ。よって、「こんな状況の地下即売会は実施され、青展はなぜ中止なのか」なんていうことも私は主張しない。

*2:改めて確認すると普通版の方が1年後に刊行されている。どうも限定版が出された当時は当該連載が続いており、区切りのついたところで普通版を出しなおしたらしい。従って普通版の方がページ数は多い。

*3:追記:どうにか掘り出して54版を確認したところ、背がヤケにヤケて元のピンクが想像できないだけであった。少し残念だが、厚みが若干違うので2冊並べる価値は認められようと思う。