紙の海にぞ溺るる

或は、分け入つても分け入つても本の山

凪のシュミテン

 興味がなくなったかというと全くそうでもないのだが、ともかく古書展の初日に朝から列に加わろうという気概は、ここ半年くらいで完全に消え失せてしまった。ならばせめて初日の午後からでも足を運べばよさそうなものを、どうにも興が乗らずに2日目も昼頃になっての参戦である。

 さすがに開場は静かなもので、ときおり帳場での会計の声が聞こえてくるほどであった。とはいえフソウ棚に並んでいる本はそれなりに楽しめるわけで、初日の喧騒ではなかなか難しい雑誌の確認など、ゆっくり楽しめるのが嬉しい。少なくともいまの私には、このくらいのほうがちょうどよいのかもしれない。

 

森鴎外訳『十人十話』実業之日本社)大2年5月28日, 橋口五葉装 1500円

 森鴎外『妄人妄語』至誠堂)大4年2月22日, 川村清雄装 1500円

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 鴎外の本は割と武骨な装丁が多い印象だが、『十人十話』は色使い鮮やかな五葉装である。以前そこそこの美本が1000円くらいだったのを、同じくシュミテンで見てはいたが他の方に先に取られていた。まあこのくらいの値段ならひとまず良いか。

 また、同じ鴎外の『妄人妄語』は初めて手に取った。どうもカバー欠らしいが、本冊表紙はレリーフ加工がされていて美しい。因幡の白兎と大国主命であろうか、よくよく意匠を見ると画面右に「成」らしいサインが確認でき、一度は一條成美の装画かと思ったのだが、巻末の広告から川村清雄装であると判明した。2人のサインは遠目に見ると似ている、という今後活用できそうにない知見を得たかっこうである。

 

②松村武雄『欧州の伝説』(金尾文淵堂)大3年9月16日函, 後藤朝太郎題字 杉浦非水装? 800円

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 知らない著者だったが、装丁に惹かれた。表紙の意匠に小さくある印から非水装であろうと思う。調べてみると神話学の泰斗とのことで、もしかしたら過去に編著書を買ったこともあるかもしれない。己の浅学を恥じたいところである。

 

 

③合冊『文学界 第5巻1号-同2号』文芸春秋社)昭13年, 青山二郎装 300円

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 ふだんなら『文学界』などいちいち確認しないが、凪のように平和な場ではそれも許されるのである。見ると前半部の1号には北條民雄「続重病室日記」が収録されており、そういえば「いのちの初夜」も『文学界』だったなぁと2号を見ると、なんと北條民雄追悼と題した小特集が組まれていた。

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この第1号は印刷が昭12年12月10日で北條民雄は12年12月5日に没しているから、惜しくも印刷直前に亡くなったようだ。気になる作家でもあるので、ちょうど境目の合冊ということで買っておく。

 

④九條武子『薫染』実業之日本社)昭3年11月5日カバー函, 平福百穂装 800円

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 ここでは書いていなかったが、私は九條の『無憂華』について重版を集めている*1。その関連ということで、ほぼ同じ装丁のこれがあったので買ってみた。カバーと函がついて完本なのは『無憂華』と同様である。

 本書には挟み込まれた葉書があった。

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版元の実業之日本社主催で九條武子の追悼歌碑を建立する予定があるとのころで、その支援を募る報せである。

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裏面には予定図も印刷されていて、曰く〈歌碑は 鋳金家 高村豊周 図案化 広川松五郎画伯 の合作によるものであります。〉とあり、なかなか豪華な布陣で臨んでいることがうかがえよう。しかし、現在グーグルその他で検索をかけてみても、ここにあるような歌碑は見当たらない。東文研アーカイブデータベースの高村豊周のページによると、昭和10年に〈九條武子歌碑を作る(築地本願寺)〉とあるが、現在築地本願寺にあるものはもっと簡素である。

 葉書には〈不足分は全部小社に於て負担致し(…)〉とあるけれども、予算上の問題で計画が変わったか、景観とか実際的な事情か、はたまた昭和10年に建てられたものと現存の者が異なるのか、このあたりは調査を続けたいところだ。

 

 ふだんより高めの本を少し抱えて会計は1万円ほど。なんとなくいい買い物をしたような顔をしているがむろんそれは間違いで、すでに歴戦の勇士たちが1日をかけて隅々まで探書しきったあとの棚を、一縷の見落としに賭けて漁っただけの話だ。結果、それなりに嬉しくこそあれ、瞠目するほどの掘り出し物には出会えなかったから、やはり初日のポテンシャルには遠く及ばないのである。

*1:現状4冊所持しているが、体裁や挟み込み等がすべて異なっているのだから驚く。昭和初期の百版本である。