紙の海にぞ溺るる

或は、分け入つても分け入つても本の山

お慰み神保町

 例年ならば古本まつりの時節である。ここ数年は朝一にS林堂のワゴンに詰め掛け、1戦終えた後は特選になだれ込み、あとから靖国のワゴンを冷かして廻るのがお決まりとなっていたわけだが、本年はかなり早い段階から中止が決まっていた。

 すずらんのブックフェスも中止で、その代わり各出版社が個々にセールをやるとかいう話だが、活気としては1枚も2枚も落ちることは言うまでもない。すこぶる残念である。

 

 その虚しさを慰めるためというのでもないが、神保町はフソウ事務所へ行った。

 

①和田博文『資生堂という文化装置』岩波書店)平23年4月26日初カバー 2400円

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 前回の訪店時、悩んで買わなかったもの。定価で買うのはちょっとしんどい、それこそブックフェスで安値を狙う類いの専門書である。

 印象としては大正期が中心だが、資生堂が大衆文化に与えた影響は甚だしく、化粧品のみならず食文化やアートにおいても、当時のくらしを語る上では欠かせないと思う。意匠部の件りも、古本者としては見逃せない。

 このテの本で重要なのは図版の量であろう。いかに情報を盛り込んで説明しようとも、伝達が文字媒体のみである限りにおいて、その視覚的な実態は読者の想像力に依存する形となる。写真が1葉でもあれば、かなり正確に当時の姿を伝えることができるわけだ。本書は前頁の下部が注釈に振られていて、図版は実に豊富である。これを見るだけでも面白いのがよい。

 

菊池寛真珠夫人 前編』(新潮社)大14年8月12日19版函

 ―――『真珠夫人 後編』(新潮社)大14年12月10日17版函 揃7800円

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 ずっと欲しかった本である。最悪裸でもいいと思いながらも、安く見つけられたことはこれまでになかった。やはり菊池寛の代表作のひとつでもあるし、装丁の美しさでも知られているだけあって競争率が高かったのだろう。文アル関連でも人気が高かったように思う。

 前後とも函の差込口あたりが少し欠けていて、だからこそ函コワレ的な値付けということらしいが、私としては全く問題ではない。むしろ函の背がこれだけ綺麗な本というのもめっけものだと目しているくらいで、本冊の平もそこそこである。

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 ある意味では、極美本でもなく崩壊寸前のイタミ本でもなく、読むにはちょうどよいラインかもしれない。こういう本ほど、初刊本で読めば格別の読書体験が得られようと思う。

 

長田幹彦『紅夢集』春陽堂)大5年9月18日 800円

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 これはムシャ書房店主が持ってきた新入荷品。前回に引き続いての幹彦本である。例によってラベルが張り付けられているのがやりきれないものの、『船客』と違って背下部のものはうまく剥がすことができたようだ。

 幹彦の本はまとまったかたちで見たことがなく、どんな本があるのか正直ほとんど把握していない。本書もそこそこ珍しいとは思うのだが、自信はない。おそらく函が付いて完本か。

 で、私らしくないことに読書意欲が高まっていたので、とりあえず冒頭の1篇「母の手」を読んでみる。

 母と2人きりで貧乏を懸命に生きてきた主人公は、大学を出、ようやく仕事の休暇を得られたタイミングで母と連れ立って旅に出かける。〈母が常々から一生に一度は是非参詣してみたいと云ってゐた善光寺を中心にして、甲斐、信濃の山地を歴遊して歩く〉旅程を立て、果たして東京を発って5日目には善行寺参りを達成した。ところが列車で帰路につく彼らに、大雨が襲い掛かる。なんとか近くの駅にたどり着き、娼楼に辛うじて宿を見つけるものの、翌朝になっても列車の復旧の目処は立っておらず、かわりに古賀から栗橋への渡船を利用することとした。順調に漕ぎ出したかに見えたが、濁流の勢いは未だ失してはおらず、主人公と母を乗せた船はあえなく転覆してしまう。一命をとりとめた主人公は、濁流にもがく中で自分に縋りつく手を必死で蹴落としたことを思い出す。病院で発覚した母の死によるショックと、蹴落としたのが母の手であったのではないかという後悔とで彼は心臓麻痺を起こし、死んでしまうのだった。

 と、いうのが梗概である。実際にはもっと考慮すべき要素はあるが、ともかく本筋は以上の通り。土地勘がないので検索してみると、問題の「古河」は茨城の西端、「栗橋」は埼玉の北部であるらしい。作中での渡船がどこから出たのかはよくわからないが、地図を見るに渡良瀬川利根川にそそぐあたりだろうか。時代的には、明治43年の洪水が条件に当てはまるように思うが、直接のモデルになったという証拠は得られていない。

 ともあれ、ちょっと頭を読むつもりが思わず惹きこまれてしまった。哀しい結末だが、読ませる魅力があったことは確かである。幹彦などこれまできちんと読もうとしていなかったが、今後気にしておきたいと思う。むろん、読む対象としての話である。 

夢を求めて神保町へ

 古本仲間からのタレコミがあった。曰く、「フソウ事務所の棚が新しくなっていて、アレとかコレとか、良い本がリーズナブルな価格で出されている」というのだ。土曜日を休みにすることはどうにも叶わなかったが、それを聞いて尚足を運ばないのはコレクターの名折れである。睡眠時間を削りに削って、古書展のない神保町へ訪ったのであった。

 久々に行った事務所は大きく様変わりして見えた。カッチリと黒っぽい古書で埋められていた棚ばかりであったのが、3本は白っぽい研究書系や文庫で占められ、2本がお買い得な黒っぽい本になっていたのである。それとて全体の棚からすれば半分に満たないのだが、質があまりに高いので眺めていると時間を忘れてしまうし、もっといえば欲しい本が多すぎて財布の心配が先行してしまう。

 

①岩野泡鳴『猫八』(玄文社)大8年5月1日函 1500円

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 泡鳴をすごく集めているわけではないけれども、なかなか見かけない本だと思う。装丁が魅力的なのは某版道さんによる「お年玉プレゼント」を見て知ってはいたので、いつか現物を拝みたいと思っていた。

 よく見ると本冊の背は改装だが、あまり全体の雰囲気を損ねてはいないと思う。それにしても函付きでこの値段は「業界最安値」で間違いなかろう。なお、装丁者は現在のところ不明。

 ともあれ表題作「猫八」が初代江戸屋猫八のことを指すということすら知らなかった私にとっては、宝の持ち腐れもいい所である。少しずつ読んでいこう。

 

中原中也ランボオ詩集』書肆ユリイカ)昭24年9月20日2刷帯 12000円

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 野田書房版と比べれば、ユリイカ版は古書としての重要度が一枚落ちることに異論の余地はないだろう。私とて、もし2書が並んでいたら野田書房版の方が欲しい。

 けれども、再版であっても「極稀帯」と書かれてしまっては買っておきたくなるのが哀しい蒐集家の性というものである。まあ中也じたい、トップクラスに関心があるかというとそこまでではないにしろ、好きな詩人であることは確かなので今後のことを考えて購っておいた次第。

 棚に刺さっている他の本と比せば高かったが、悪くない買い物であろうとは思う。

 

三四郎『皮肉社会見物』(日本書院)大11年2月5日7版, 著者自装? 1200円

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 『それからの漱石の猫』でおなじみの三四郎である。以前「日本の古本屋」を通じて代表作を購入していたが、これで全部そろったのではないだろうか*1

 内容としては、タイトルにある通り、当時の社会に対して風刺というか皮肉というかをクドクド述べたもの。直接の言説に加えて、寓話風の小噺が交えられており、読み物としては面白いのだけれども、全体に何となく一本調子で最後まで読み通すのには忍耐力が要りそうである。

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 巻末の刊行物一覧を見ると、似たような社会風刺系の本が日本書院からたくさん出されていることが見て取れる。『漱石の猫』『坊っちゃんの其後』がこの並びに列されていることは、これらのパロディ本の受容として、ちょっと頭においておくべき事実かもしれない。

 

 事務所でしばらく歓談に耽っていると、ムシャ書房主人が新入荷の本をもって現れた。某大学の除籍印のない口が出現したとのことで、ラベルや印で厳しい状態ながら、本としてはなかなか良いものが集まっているようだった。

 

小川未明『紫のダリヤ』鈴木三重吉)大4年1月28日, 津田青楓装 2000円

 徳田秋声『密会』鈴木三重吉)大4年4月11日, 津田青楓装 2000円

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 あまり見かけない叢書である。見かけないのだが、この現代名作集とか金星堂名作叢書みたいな薄手の並製本に1万円近い額を出すのはちょっと難しいわけで、手ごろな値段で手に入れられたのは嬉しかった。

 数冊ある中からこの2冊を選んだのは、居合わせた先輩の御助言による。「買うならこれとこれだね」と。いや全部買ったとて後悔はないわけだけれども、他の買い物の大きさもあって、1日の出費としてはそれなりの会計になるのが恐ろしくも感ぜられたのである。

 

長田幹彦『船客』春陽堂)大2年2月19日, 橋口五葉装 800円

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 色調の鮮やかな装丁に惹かれてページを繰ってみると、果たして扉絵には五葉の落款が入っていた。安いのはいいことだが、美装丁であるだけに一層シール貼り付けが惜しいというものである。

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 で、事務所の机上に積みあがった「私が買う本」の山にこの本を加えておいたところ、先の先輩から本書が幹彦本でも珍しい1冊であるとの指摘を頂いた。造本から想像できる通り、元は函が付くという。そういうわけでイザ入手しようと思うと苦労するようなので、価値を知らなかった無知を恥じるとともに、知らずとも手に取った己の慧眼(というと如何にも不遜だが)をひと先ずは誇っておきたい。

 

 当初の予定より長居を決め込んでしまったので急ぎ足に神保町を後にしたのだが、帰りしな東京堂へ立ち寄る。

 

山中剛史『谷崎潤一郎と書物』秀明大学出版会)令2年10月1日カバ帯, 真田幸治装 3080円

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 古書の世界の先輩、山中剛史さんが上梓された初の単著である。刊行予告が出されてから、ずっと心待ちにしていた*2

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 内容としては、氏がこれまでに『日本古書通信』や『初版本』などに発表した論攷に加筆を成したものがメインとなっていて、題名の通り、書物≒古書から見た谷崎論としてまとめあげられている。

 私は読書感想すら満足に書けないほど読み手失格の身分なので、あまり中身に踏み入った感想は差し控えるよりほかないのだが、本書は文学研究というお堅い分野と古本という趣味の分野とをつなぐ、新たな可能性を照らし出しているように思う。〈あれこれの来歴を背負った古書というその空間に進んで飛び込み、耽溺し、その渦中にありながらまたそれを理知的に捉え直すような、古書趣味と学問的理知のアマルガムである。(序 p.5)〉とあるが、一般の文学研究は「学問的理知」こそ多分に認められても、「古書趣味」に「耽溺」してそれを研究に持ち込むというのはこれまでにあまりなかった(というか成し得なかった)試みなのではないかと思う。その点、(失礼を承知で申し上げると)著者のマニヤぶりはまさに「病膏肓に入る」有様で、その趣味的な見識が如何なく発揮された1冊と言えるのである。

 これは個人的な煩悶だが、3年半ばかり真剣に古本と向き合い蒐集を続けていく中で、はたと自分が何のために蒐めているのか疑問に思ったり、古通などで先輩方が発表されているような素晴らしい研究成果の数々に羨望の目を向けることも1度や2度ではなかった。畢竟、趣味でやっていることなのだから経済的成果とは無縁で結構なのだが、もしもうまく探求目標(言うまでもなくブツとしての探求ではない)みたようなものを見つけられれば、1本筋の通った蒐集に励むことができるようになるのではないかとも思うのである。こう言うとすごく味気なく聞こえてしまうかもしれないが、山中氏の本は、そのひとつの答えを示しているように感じられる。

 読者への影響という観点で言えば、古本者にとっては文学研究への、文学畑の人間にとっては古本道への、よき架け橋たりえる書であろう。

 また本書じたいの装丁への拘りも並大抵のものではない。小村雪岱の文字を採集した題字、谷崎本の印象的な装画から引用された表紙絵、本冊表紙・裏表紙に刷られた著者の書架と、どれも古本的趣味に満ち満ちている。造本は氏の畏友であるところの真田幸治氏の手によっていて、丁々発止のやり取りを重ねて造り上げたと聞いた。再び引用となるが、〈精魂込めた文章をあり得べき最上の形態として書物という形に具現化(序 p.8)〉したというのは見事に本書にも当てはまっている。

 ここまでで引用したのは序文ばかりだが、それはとりもなおさず、序文に著者の書物観が見事に詰め込まれており、本書に通底するコンセプトを鮮やかに伝えていることを意味するのである。

 などと偉そうなことを書き連ねたが、読書における修業不足がたたって、まだ半ばまでしか読み遂せてはいない。研究書を真剣に、しかし学問的喜びを享受しながら読むのはずいぶん久しぶりな気がする。書影が思い出せないときには橘弘一郎『谷崎潤一郎先生著作総目録』を紐解き、休憩に際しては座右の古書を撫でさすり、ゆっくりと消化するように読書を楽しんでいるところである*3

 

谷崎潤一郎と書物

谷崎潤一郎と書物

  • 作者:山中剛史
  • 発売日: 2020/10/01
  • メディア: 単行本
 

 

 秀明大学出版会による文学書は、今後も目を惹くタイトルが畳みかけるように発刊される。いずれも著者と題目の組み合わせからして「間違いない」と思わしめる本ばかりであるから、どんどん己の糧としていきたいところである。

*1:後日調べたところ、ほかに『街頭警語』というものもあるようだ。まあ大金をはたいて買うほどの本ではない。

*2:ほんとうはAmazonで1ヶ月前から予約していたのだが、発売2日目を経てようやく発想通知の届く体たらくであったので、痺れを切らしリアル書店で購入してしまった次第。

*3:図らずも2冊購入したことが好く働き、片方は書き込みをしながら読み進めることができている。これとて久々の体験である。

シュミテンに喉の渇きを癒す

 感冒下にあって2度目のシュミテンである。先週の例に倣い、休みを取らずに睡眠不足の体に鞭打って神保町へ向かう。早めに行って9時くらいに整理券を受け取ろうと思ったのだが、列が伸びるばかりでなかなか扉は開かなかった。前回ので効果がイマイチだったから平常通りに戻したのか、と思いきや、9時半前くらいに整理券配布と相成った。配布から30分経たずに会場ではあまり甲斐がない。

 で、10時5分前くらいに地下へ案内された。今回はキッチリ番号順で、しかも券を回収しつつ案内されたので道理にかなっている、と思ったのもつかの間、いつになっても「ハイ、ここまで」との区切りがなされず、おそらく40番を超えてもだらだら最下層で荷物を預けてゆくのだった。なぜか入り口前に溜まるのは禁止され、階段の方に一列になるのだが、いまさら意味がないのではないか、と思ったことである*1

 

 そういう状況であったため、前回ほど閑散とした感はなく、それでも人混みが棚にまとわりつくのがワンテンポ遅れた印象。12番目の私はもちろんかなり早い方なので、最上段、タスキのかかった本から手早く抜き取っていく。

 

吉井勇『生霊』日本評論社)大10年4月5日函, 広川松五郎装 茅原東学題字 1000円

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 吉井の本の中でも、かなりガッシリした部類であるように思う。本冊のクロスも綺麗だし、函の状態もまずまずである。

 なにより装丁がとてもよい。コウモリをあしらったシンメトリーなデザインと、題字がよく嵌まっている。先輩に聞いたところではフソウさんは安くつける本らしいのだが、そもそも買う人がいないのだろうか。かくいう私も、戯曲をいちいち読むかというと難しい所である。

 

夏目漱石吾輩は猫である 上』(大倉書店)明39年2月5日5版, 橋口五葉装

 ――――『吾輩は猫である 中』(同)明40年11月10日7版, 橋口五葉装

 ――――『吾輩は猫である 下』(同)明40年5月19日初版, 橋口五葉装 3冊揃4500円

 ――――『心』岩波書店)大3年10月1日3版, 著者自装 2000円

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 数ある蒐集対象の作家の中でも、漱石だけは重版が安ければいくらでも買ってしまう。造本の好いものが多いというのもあろうが、私にしては珍しく、作品への愛着があるというのが大いに係っている。

 『心』は2冊目、『猫』は通算でちょうど3セットが集まったかっこう。『猫』の背欠は残念であるが、この虚しさはここにとどまった話ではなく、何を隠そう、これまでに購入してきた『猫』上巻はいずれも不完全な状態のものばかりなのだ。カバーがないのは予算上かまわないとしても、表紙や背が欠けているのは美本志向の高くない私でも苦しいものがある。それにしても、下巻が初版というのはめっけものだろう。

 

③沖野岩三郎『宛名印記』(美術と趣味社)昭15年5月15日函限500署名句, 福田平八郎表紙絵 中村岳陵見返し 上村松園・島田墨仙・福岡青嵐口絵 高山辰三題箋 4000円

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 目録に載っていたが注文はしなかった。ちょっと値段が張るのと、普通版*2は所持しているし、そもそも限定版の存在を知らなかったから現地で確認出来たらしておきたく思っていたものが、注文されずに残っていたようだ。

 上村松園の口絵はいずれもオフセットで面白くないが、全体に造りが小ぎれいで、戦前の本という感じがしない。沖野の自筆による緑雨の句(伝)もよい。

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 フソウさんに聞いたら、500部といってもそうそう出てくるものというでもないようで、まあこれを縁と買っておいた次第。間抜けなことに、限定500部すべてに句署名が入っているのかどうかは確認しそびれてしまった。

垣越しに 物問われけり 春の雨 緑雨の句

 

高浜虚子編『春夏秋冬 春の部』(ほととぎす発行所)明34年5月25日, 下村為山装

 ―――――『春夏秋冬 夏の部』(文淵堂)明35年5月15日, 下村為山装

 ―――――『春夏秋冬 秋の部』(俳書堂)明35年9月7日, 下村為山装

 ―――――『春夏秋冬 冬の部』(俳書堂)明36年1月12日, 下村為山装 4冊揃300円

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 4冊まとめて縛ってあったもので、背の状態は悪く表紙にもタイトルしか書かれていないので、知らなければスルーしていたと思う。確か文アルに碧梧桐が登場したころ、ニホン書房で買うかどうか悩んだ末にやめとしたのだった。そのときの価格は覚えていない。

 さまざまな俳人の読んだ句を集めた本だが、春の部は獺祭書屋主人=正岡子規が選者、夏以降は〈春之部と同じく獺祭書屋主人の選に成るべき筈なりしが、其病重きが為め余等不肖を顧みず代って之を選抜するに至る〉として虚子および河東碧梧桐が選句にあたっている。

 装丁については『名著復刻 詩歌文学館 〈紫陽花セット〉解説』を参照すると下村為山とのことで、〈表紙は共に上質紙で、桜・矢車草・コスモス・水仙の花を配した二色刷り(p.180)〉とモチーフについても詳しい。出版社がコロコロ変わってる点も気になるのだが、それについての記述はないようだ。

 確かに状態は今一つかもしれないが、俳句史の中でも重要な(と思しき)位置づけの本が揃いで300円というのはどうなのだろう。各75円なんて投げ売りもいい所ではないか。安いのは好ましく嬉しい収穫であるとはいえ、虚しさもひとしおである。

 

長田幹彦『続金色夜叉春陽堂)大9年4月17日17版, 竹久夢二装 300円

 高須梅渓『近松の人々』(岡村盛花堂)大8年4月15日7版, 竹久夢二装 300円

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 例えば雪岱とか恩地とか、好みの装丁家は何人かいるにはいるが、それに沿った集め方というのはしていない。夢二とて、もちろん好きだし装丁本には近代文学において重要な本もあるものの、「夢二本」というくくりでの知識は浅薄である。

 今回購入したのも、幹彦の本は知っていたが梅渓のは知らなかった。従って相場も全く分からないのだが、この値段ならイタミ本でもいいと思う。

 梅渓の方には木版口絵も1葉付いているが、ネットで調べると数葉ついているような記述も散見される。

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単に欠けているのか、版によって綴じられていないのか、そのあたりはもちろん与り知らない。

 

石川達三『結婚の生態』(新潮社)昭14年9月12日110版元パラ函, 佐藤敬装 300円

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 よくある本だが、美本なので手に取ってみた。過去にも同じ本を函付きで買ったことがあり、それは54版だったが、その後半年で100版を超えたようだ。

 ただその54版がここまで鮮やかなピンクだった記憶はなく、もっと地味な、ちょうどこの本冊くらいのテイストだったように思う。しかし54版は別宅にあるのですぐ確認できないのが口惜しい*3

 

 発表するほどの大きな発見はなかったが、そのほか要調査物件が多く見つかってよかった。先週の雪辱を晴らしたような心持である。やはりシュミテンは、我々コレクターにとっては垂涎のイベントであると実感した次第である。

*1:こういうとき、声高に正義を叫ばないのが大人の対応である。変に声を上げてはすべておじゃんになってしまうことが目に見えているからだ。よって、「こんな状況の地下即売会は実施され、青展はなぜ中止なのか」なんていうことも私は主張しない。

*2:改めて確認すると普通版の方が1年後に刊行されている。どうも限定版が出された当時は当該連載が続いており、区切りのついたところで普通版を出しなおしたらしい。従って普通版の方がページ数は多い。

*3:追記:どうにか掘り出して54版を確認したところ、背がヤケにヤケて元のピンクが想像できないだけであった。少し残念だが、厚みが若干違うので2冊並べる価値は認められようと思う。

空振り、豪雨

 うっかり休みを取り忘れたマドテン当日。ふと、休日でなくとも、早めに切り上げさえすれば仕事と仕事の合間を縫って神保町詣でが叶うのではないかと思い立った。ただでさえ下賤の身の上では日々のストレス甚だしく、古本で少しでも癒しておこうという算段である。

 

 9時過ぎくらいに会館前をのぞき込むと、いつもと変わらぬ列が形成されている。どうも前回のシュミテンの如き整理券は配布されないものらしい。あまりスタッフの負担を求めるのも酷というものだが、整理券を配布して10分前あたりに再集合という形態は恒常的に実施しても良いのではないかと思ったりする。早く来た人が先に入れるのは同じことだし、殊炎天下に棒立ちで開場を待ち続けることに意味があるとは、私にはうかがえない。まあこの長い歴史で為されてこなかったのだ、普通に考えて何か私の与り知らぬところで差し障りがあるのであろう。

 

 で、少し時間をつぶして9時半くらいにならび、荷物を預けて地下で大人しく開場を待っていると、入り口に掲示されたマップがやけに閑散としているのに気づく。棚間が広いのは快適なのでよいが、アキツと蝙蝠までも会場販売を行わないというのは誤算であった。目録には掲載されていたので油断しきっていたけれども、どこかで告知されていたのだろうか、開場を目前として肩を落としたことであった。

 と、なるとふだんの傾向から言って、私の目指すべきはケヤキくらいなものであろうと早足に棚へ向かってみるも、やはりどうも拾えない。気分が一気に落ち込んだこともあって、逆に居直りを決めて悠然と眺めてゆく。

 

①木檜恕一『住宅と建築』(誠文堂)昭4年1月10日12版函 660円

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 ケヤキではほぼ拾えず、なぐさみに黒っぽいギョザン堂を見てゆく。文学系、というより美術系の本が目立つ中から拾ってみた本。背には「大日本百科全集」とある。

 昭和ごく初期に「文化住宅」が乱立し始める中で、いかにして住みよい環境を整えられるかを述べたのが本書である。ところどころに写真や図解の入っているのが分かりやすくて良く、また項目の細かさも魅力的だ。居間や台所ならいかにもありそうなものだが、家具建材や壁紙まで検討されているのが面白い。

 たとえば「書斎の家具」については以下のようにある。

書棚に於ては、書物を良く整理整頓して不体裁に陥らず、而も其の見出しを便利にし、且つ之が保存を安全ならしむる装置を施すことが尤も肝要な条件である。(p.208)

当たり前のこととはいえ、実に耳の痛いことである。

 こうした当時の建築についての記述、文学を紐解くうえでひとつ重要な資料ではないかと思わぬでもないのだが、その向きからの研究はすでにあるのだろうか。

 

②『中央公論 第52巻6号』中央公論社)昭12年6月1日 660円

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 中央公論は好きな雑誌ではあるが、こんなものまで漁りだすくらい、他に手に取るものがなかったという証左である。

 本号は中野重治「汽車の罐焚き」の初出号ということで購入した。が、特段好きな作家というわけでも好きな作品というでもない。ただ「ああ、これが初出か」との浅い感慨があったのみである。

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ほかに中本たか子「受刑記」、三好十郎「地熱」と、プロレタリア色が濃く、資料として持っておいてよいだろう。

 

③『中央公論 第52巻9号』中央公論社)昭12年9月1日 660円

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 先に挙げたものの隣に並んでいた。しかしこのテの雑誌に600円は高い。

 小栗虫太郎「金字塔四角に飛ぶ」の初出誌として買ったものだが、ほかにも日夏耿之介永井荷風の芸術」とか佐藤俊子(田村俊子)「残されたるもの」とか、こちらも読みごたえは確かである。

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 で、ちょっと調べてみるとこの号は発禁処分をくらっていたようだ。城市郎『発禁本百年』によれば〈『国家の理想』(矢内原忠雄)と『剛と柔』(近松秋江)の二文が八月二十三日に削除。〉とのこと。これを受けて当該箇所を確認してみると、なるほどそれぞれページが破り取られている*1

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 発禁本を特に集めているわけではないが、近代文学を蒐集していれば必ずぶつかる壁のひとつであろう。これまでにも発禁本とされる本*2を買ったことはあるが、幸いなことにほとんどが無削除版で、ここまで派手に破られたものは初めて入手したように思う。削除版という虚しさもありつつ、今回のように収穫の弱い日にあっては辛うじて拾い物ができたというところか……。

 

 どうにか来た甲斐はあったと口に出せる程度の買い物はしたけれども、たかだか3千円の支払いである。気分は満たされない。

 店の均一でも漁ろうかと靖国へ出ると、にわかに雨が降り出した。雲行きからすればすぐ止むと思われたが、本屋にとっては命取りの雨である。早足で田村へたどり着くも「残念ですが閉めます」と布をかけられてしまった。

 あえなくスゴスゴと昼食を済ませ、まっすぐ帰宅。無聊を託つ中で向かったにもかかわらず、却って欲求不満を募らせてしまった格好である。来週のシュミテンに賭けたい。

*1:ノド近くに残存した部分を見ると、かなり伏字の多いことがうかがい知れる。対策を講じてなお、当局には削除されたということである。

*2:これまで入手した本に限らず、城市郎の発禁本関連書は少しく不正確な記述もあるという話である。発禁処分を受けたことは確かでも、それが当該の版のものであるかどうかは慎重に判断しなくてはならない。

猛暑の彷徨

 やりきれない暑さである。ふだんから夜型一辺倒の生活をしていることもあって、気温の高さというよりは瞳をあぶるような日差しの鋭さに参ってしまう。サングラスが欠かせないのはもちろんとしても、人のまばらな外を歩く間はマスクも取り外すようにした。熱射を浴びながら馬鹿正直に装着する必要などなかろう、という自己防衛判断である。

 

 で、8月はもともと即売会の乏しい季節である。偶数月開催が基本のマドテンも、8月の分は9月にずれ込むのが慣例となっているようで、まあマドテンだと必ず行くとも限らないのだが、なんとなく手持無沙汰を感じてしまう。

 あまりにも退屈なので、近くの店をめぐって雑本を買い漁ることにした。ササマ閉店後にオープンした「ワルツ」に、ようやく訪うタイミングを得た格好である。まあ酷暑の今することではないが、そうでもしないと日々のストレスを解消することなどできないのだ。

 

①水野稔編『黄表紙集1』古典文庫)昭44年6月20日カバー 110円

 ――――『黄表紙集2』古典文庫)昭48年6月20日カバー 110円

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 店頭の均一台の配置はササマと同様である。相場千円クラスの掘り出し物がゴロゴロしているのも、以前と同じようで嬉しい。

 古典文庫と言えば、近世以前の研究をする者が必ず通る道であろうと勝手に思っている。発行からずいぶん経っているが、古典の原文がこういう手軽な形式で網羅的に読めるのは他にないような気もする(専門外なので詳しくは知らない)。

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 中でも面白いのは、冒頭部に影印とか写真版が付されている巻で、今日買った2冊も収録の黄表紙が全作全頁掲載されている。さすがに印刷は不鮮明だけれども、とくに大衆性の高く絵入りが魅力の黄表紙なら、紙面を見ないわけにはゆかないし、資料性も高いだろう。

 裏見返しを見やると「2冊4000円」という鉛筆書きがあった。かつて本書を扱った古本屋の筆であろうが、昔はそんなに高かったのだろうか。

 

渡辺一夫『うらなり先生ホーム話し』カッパ・ブックス)昭37年5月1日8版カバー, 白井正治横尾忠則カバー 柳原良平カット*1 330円

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 店内も、どうやら整理はまだ行き届いていないらしい。文庫は文庫でまとまっているが、それ以外のジャンルはきっちりまとまっているわけでもなく、他の方も言っているように即売会的な魅力がある。逆に言うと、店頭がメインで即売会に不慣れな人だと、好みの本を探すのに苦労するかもしれないと思ったことであった。

 「うらなり」とタイトルにあれば坊っちゃん案件と判断する私は病気であろうが、冒頭部にその由来が書かれており、需要の一端としては面白く思ったので購入。

 

③『映画評論 17巻4号』(映画評論社)昭10年4月1日 550円

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 ふだんなら面倒なので漁りもしない雑誌だが、映画関連の古いところが固まっていたのでゆっくり見てみる。

 と、我ながら引きの良いことに目次に「坊っちゃん」の文字を発見した。P.C.L.製作、山本嘉次郎監督の映画を、小竹昌夫が評した小文である。

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坊っちゃん」の様なものは映画化しにくいに違いないから、この『坊っちゃん』の如く、筋を追いつつも、一方では大衆的な笑いを求めるのが得策だと考えられる。然しこの映画をみただけでは漱石の描こうとした坊っちゃんから離れた単なる駄々っ子としか受け取れない。佐々木邦的な坊っちゃんにまで低下している。

とにかく映画には疎いのでP.C.Lの「らしさ」がどんなものかは与り知らないが、「佐々木邦的」になることを「低下」と言い切るのは痛快である。しかし坊っちゃんがいわゆる大衆小説(エンタメ小説)とは一線を画しているのは確かで、その線引きを維持しつつ映像化するのは確かに難しいのかもしれない。なお、小竹は映画を扱き下ろしているわけではなくて、「坊っちゃん」としてというより演者の面白さなど、即時的な楽しみとして見ればアリだという書き方をしている。

 

北原白秋邪宗門(西郊書房)昭23年12月25日元パラ 330円

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 白秋の名詩集の、むろん後版である。このテの後版のキリがないのは言うまでもなく、私とて「坊っちゃん」以外ではよほど気に入った作品の出ない限り買うことはない。そこにおいて『邪宗門』はさほど思い入れのある本ではないのだが、出版社にピンとくるものがあって購入した。

 ピンと来た理由は、次にあげる本である。

 

北原白秋邪宗門(西郊書房)昭23年12月25日 100円

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 同じ西郊書房の、同じ発行年月日の本である。これは先月あたりにS林堂の均一から拾ったもので、店主と「これ持ってる?」「なんですか、その版……」というやりとりをした記憶が深い。合皮のようにゴテゴテした紙質に金箔を貼りまくっているがなんとも下品に思える。

 先に挙げた④との奥付における違いは、定価と印刷者との2点である。④が180円でこちらが200円というのは措くとして、印刷者に関しては④が長野県の柳沢某、⑤が東京都文京区の小山某となっている。白秋と長野の所縁はなさそうだし、西郊書房のつながりを調べるべきなのであろうか。他の紙面は同じようだが、⑤は扉に「服部嘉香校訂」とあるが④にはない。これに関しては、深い意味はなさそうである。

 装丁で言えば、④のほうが俄然好みである。

 

 

 日付は少し動くが、酷暑の中、中野周辺も彷徨した。資料性博覧会を受けて「仕方なく」歩き回った次第だが、中でも海馬で拾ったこの本は掘り出し物であろう。

 

⑤藤井樹郎『喇叭と枇杷(フタバ書院成光館)昭17年4月20日, 初山滋装 330円

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 函欠ながら状態は悪くない。初山の装丁がとにかくよく、見返しのシンプルなラインから、丁寧に色の重ねられた扉絵から、実にかわいらしい本である。

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 白秋が序文を書いているのは、界隈ではけっこうよくあることであろうが、藤井という作家は知らなかった。巻末を見ると、同出版社から沖野の本も出ているようで、こちらも要チェックである。

 以前もボロいとはいえ新美南吉『和太郎さんと牛』を掴み取ったことがあるし、海馬の均一は、こういう拾い物があるから定点観測を欠かせない。新しいものの中に埋もれているというのでもなく、全体に黒っぽい本が多いのだが、如何せん目を向ける人が少ないということであろうか。確かにだらけくんだりまで足を運んで、わざわざ近代文学を買おうという発想は捩くれている。ある意味、穴場とでも言うべきであろうか。

 

 体調も優れない日々が続いている。古書展も減り、意欲までも減退しつつある。どうにかこうにか趣味で精神を繋いでゆかないと、この陽炎に意識を絡めとられてしまいそうである。

*1:表紙のパラフィンに書き込みがあるが、これは某古本系ライターの筆に見える。

西武を目指し西口へ出る

 池袋駅周辺の地理は非常にわかりづらく、とりわけ東口に西部、西口に東武があることは土地勘のない人間にとって非常に難度の高い配置とおなじみである。

 稀代の方向音痴である私だが、上記の知識は頭にあったので、これまでに出口を間違えたことはなかった。が、今日のように何となく「西」であろうという心持で地上へ出ると危険である。記憶に引っかかっていた「西」の文字が、「西口」か「西武」か判別ができないためだ。

 結句、見慣れた風景に行きつかないことに気づいた時点でカバンの目録を確認し、東口へ進路を改めたのであった。

 

 満員電車を避けるべく8時には現地入りしていたものの、そこまで早くに列へ加わる気力はない。列が形成されるゾーンを視野に収めることのできる喫茶店で1時間ばかり粘ったのち、9時過ぎに並んだ。20番目くらいだろうか。

 いちおう検温はなされ、ひとりひとりの感覚も1mずつくらいは空けられていたものの、効果のほどはというと今ひとつな感は否定できない。

 

①登張竹風・泉鏡花訳『沈鐘』春陽堂)明41年9月20日 3300円

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 いつかは持っておきたいと思っていた本である。ここで書いたような記憶もあるのだが、蒐集を始めたころに早稲田の某店で2千円だったのをスルーしてしまい、その後シュミテンで2800円くらいだったのを再びスルーした(というか手が伸び切らずに横からとられた)という経緯がある。

 そこにきて3千円というのは、相対的に言えば高く感ぜられようものだが、相場的には俄然アリな値段であろう。

 先輩に伺ったところでは、カバーは入手困難、というか画像を確認することすら容易でないほど稀覯であるらしい。そういう外装まで追いかけるほど鏡花に思い入れがあるわけでもないから、これはこれにて良しとする。

 

②溝口白羊『家庭新詩 乳姉妹の歌』(秀英舎)明39年4月20日 550円

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 こうした「〇〇の歌」と題して、当時のベストセラーに材をとった詩集(?)は色々と出ているようだ。架蔵しているのは『不如帰の歌』くらい。そもそもの原作を読んでいないので内容を把握しきっていないのだが、ストーリーをなぞるように連詩が編まれているのだろうか。どちらが読みやすいかはさておき、今となってはニーズがよくわからない。

 本来は梶田半古の木版口絵が付くらしいがそれは欠。この値段で多くは望むまい。

 

尾崎紅葉『縮刷 金色夜叉春陽堂)大8年4月1日30版, 斎藤松洲装 2750円

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 先輩からパスを頂いた。本書は紺色の表紙をよく見かけるが、版の若いものが黄色であるとのこと。これは黄色表紙の中では版を重ねたほうか。言われるまで気づかなかったが、版数が若いということは、木版口絵の刷りが好いということを意味している。

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 で、これは同書にしてはなかなかの美本である由。表紙も印字された文字の金もしっかり残っていて、函もないのによくぞここまでと快哉を叫ばんばかりの保存状態である。

 

長田幹彦祇園夜話 下巻』春陽堂)大14年9月15日, 竹久夢二装 4400円

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 これも初めは先輩に見せていただいた本。「手ごろな値段なんだけどねえ」と呟くその本を見て、ふと前回の池袋での買い物を思い出した。確かその時も同じ先輩から『祇園夜話』を頂いたのではなかったか、と。

 で、ここがブログをしたためている強みなのだが、その場で過去の記事を参照すると、果たして同タイトルの上巻であった。それを先輩に伝えたところ、「上を持ってるなら買うしかないね」とお譲りいただいた。つくづく、いい本を買うためには、資金・知識に加えて人脈も肝要だと痛感する。

 手に取った段階ではビニールにくるまれていて中を確認できなかったが、家に帰って検めてみると以下の蔵書印が捺されていた。

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 「雪郎蔵書」と読める。近代文学のコレクター間で知られる蔵書印はいくつかあるが、その中のひとつである。といって「長岡蔵書」みたいに例をいくつも知っているわけでもなく、ただそういう印を捺したコレクターが存在したという程度の認識しか持ってはいなかった。

 改めて調べてみると、この旧蔵者は白須雪郎(シラス・セツロウ)なる人物らしく、トム・リバーフィールド編『昭和前期蒐書家リスト』を見ると少なくとも昭和10年代に活動していたコレクターであるようだ*1

 

 ところで今回の開催は、参加古書店が少なかったのか、通路が広く確保されているのが好かった。また通例のニワトリにおける押し合いへし合いも全くなく、やはり感染を警戒する向きが多いのだなと思いつつ会場を後にした。

 すると、出口のわきには未だに列が残っていた。どうも会場内での混雑を避けるべく入場制限を実施しているようで、「13時より入場可」のごとく、時間を指定して再度来場させているとのことであった。シュミテンもそうだったが、生き残りを賭けて、いずこも工夫に工夫を重ねているのである。

*1:しかしリストに記載された蒐集分野は文学ではなかった。どういう観点でまとめられたコレクションであったかを考えるうえで興味深い。

ミシン目のついた整理券

 前回のシュミテンはギリギリの開催であった。あの直後にナントカ宣言が発令され、古書展はおろか、業者市まで中止と相成ってしまったのは、コレクターにとって悲痛以外の何物でもなかった。

 あれから数か月を経て、都内の状況は再びあの頃に逆戻りの様相を呈しつつある。開催すら危ぶまれたというのも無理のない話だが、今回のシュミテンは古書店主諸氏のというより、生き甲斐を失った我々の悲願と言ってもいいだろう。

 

 会場はともかくとして、通勤ラッシュばかりはどうにか避けたかったので、7時には神保町に着いた。マックで時間をつぶしていると、9時少しまえくらいにコレクター仲間からタレコミを受け、曰く「体温測定と整理券配布が始まっている」とのことであった。

 走って駆けつけると私が受け取った番号は9番。1時間前にしてはまずまず集まっている方ではないか。いつもの封筒がない人は住所等を記入し、クラスターが発覚した際はこれで追跡できる仕組みらしい。

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 しばし休憩のち、指定された開場5分前に再度会館へ向かうと、いつもとさして変わらない人数が集まっていた。20人くらいずつ入場させると言っていたが、運営側は一切対応しきれていない。番号順に通す素振りはおろか、整理券の確認すらせずに地下へ通そうとする始末。客からの指摘でどうにか軌道修正でき、我々も自治的に順番通り並んだ(もちろん距離は取らなくてはいけないので「だいたい」である)ものの、あの様子ではノウハウとして蓄積されることは期待できない。次回、パンデミック下での開催があったとしても、同様のてんてこ舞いを見せること必至である。

 尤も、今回は参加古書店が少なく棚の間隔が空いており、そういうわけで人も密集していなかったから、快適であることには違いなかった。

 

①沖野岩三郎『生れざりせば』大阪屋号書店)大15年2月20日10版 函 1500円

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 沖野の著作の中では珍しい方ではなく、私にしても裸ならば均一台で拾ったことがある。しかし、これだけ綺麗な函を実見したのは初めてであった。日本の古本屋を見ると、これの初版函付で1万円とかつけている店もあるようだが、いくら貴重であっても沖野にそこまでこだわりを見せる人は多くなかろう。

 かく言う私とて、なぜに沖野の本を買っているのかよくわからない。

 

②間司つねみ『夜の薔薇』(交蘭社)大13年6月20日函, 間司英三郎装 3500円

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 ムシャ書房の御主人に「これ買わない?」と言われてしまっては買うよりほかない。交蘭社らしくかわいらしいデザインの詩集である。

 間司というのは全く聞いたことのない名前だが、序文を書いている西條八十の弟子であるようだ。ちょっと資料が足りていないので調べられないのだが、今後頭に入れておきたい作家である。また、装丁の英三郎は弟らしい。つくづく、古本の世界は買わなければ勉強が進まない。

 

若山牧水『別離』(東雲堂)大10年4月1日9版カバー, 石井柏亭装 1000円

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 牧水の代表作。カバー付なら拾っておいてもいいだろう。確か初版とか版の浅い内は装丁が異なる由。カバーには「10版」と印刷されているが、本冊は9版。旧蔵者がかけ替えたのかもしれないが、元来食い違っている可能性も捨てきれない。

 先輩からは「こういう重版のカバー付までおっかけてるとキリがないよ」と脅かされたが、こういうのは欲しくなってどうしようもない。

 

吉井勇『午後三時』(東雲堂書店)明44年7月15日再版函, 岡田三郎助装 1500円

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 初めはスルーしていたが、先輩に珍しい外装だと伺い、よくよく見れば岡田三郎助の装丁が好かったので購入。題字をパッと見た感じでは『午後弐時』と読みそうになってしまう。「弎」といちおう変換では出てくる(環境依存文字)ものの、初めて見た文字だ。「参」を横に倒した異体字であろうか。函背の題箋は、ネット検索をした感じだとどうも元々ないらしい。

 吉井というと『酒ほがひ』などの歌集の印象がどうしても強いが、本書はそれに次ぐ2冊目の著作。作家生活のかなり初期から戯曲集を出していたということになる。ただ私は、どうにも戯曲の読み方がわかりきっておらず、たとい文庫で出ていたとしてもうまく消化することはできないと思う。

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 平岡権八郎による広告や舞台の写真まで収録されているのが好い。

 

武者小路実篤『人生の特急車の上で一人の老人』(皆美社)昭44年3月27日初版函市村羽左衛門宛献呈署名, 中川一政装 1000円

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 何より宛名がいい。羽左衛門とは歌舞伎の名跡であるが、世代的には17代目だろうか。「宛名がいい」なんて言いながらも価値を正確につかめているとはいいがたいのが現状で哀しい。

 一度は見送っていたのだが、場に居合わせた先輩が「これ、千円でも買い手つかないのかぁ……」と悩まし気に矯めつ眇めつしていたので、「でしたら買っておきます」と私の書架に落ち着くこととなった。「いい本は棚に戻すのがもったいなくて」と仰る気持ちもよくわかるだけに、卑しく買いあさってしまうのである。

 

夏目漱石硝子戸の中岩波書店)大14年6月5日38版函, 著者自装 2000円

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 ムシャ書房より購入。「目録には記載しそびれたけど、蔵印と記名がある」と連絡を受け、それでもまあ未所持で欲しかった本だしとお願いしたところ、果たしてずいぶんと美本であった。

 ご主人の言う通り、読まれた形跡がなく、函も本冊も美しい色彩を保っている。美本にこだわりを見せない私とはいえ、漱石本の中でも美しさで人気の高い一本であるから、できるだけ綺麗なものをと思っていただけに、これは嬉しかった。版数はひとまず良いとして、これだけ版数を重ねているのに函付並本すら見かけることは稀な気がする。

 ところで本書のタイトルはずっと「がらすどのうち」と読んでいたのだが、本書の1ページ目を見ると「がらすどのなか」とルビが振ってあるではないか。トリッキーな読み方をしてそれが間違いであるという愚かさを一瞬呪ったけれども、よくよく確認すると原稿のルビは「うち」であり、作者の意図としてはこちらの方が正しそうで胸をなでおろした次第である。

 

 控えたつもりはないが、カゴを溢れる程度でなく、質量的には少なめの収穫となった。会計が3万を切ったのもまあちょうどよいといったところか。

 久々の参戦とあって、立ち回り方、棚に対しての目の走らせ方など、勘の鈍っていることが露呈した回であった。もっと言うと、人が多く圧迫感があったほうが「燃える」側面もあるのではないかという感想もある。